871年にウェセックス王国の王位を継いだアルフレッドは、899年の崩御までの約28年間で、デーンロウを除くブリタンニアのほぼ全域を支配し、全てのアングロ・サクソンの王=「大王」と称された。が、デーン人にとっては勢力範囲をブリタンニア東北部にとどめられた事になり、アルフレッドは大王ではなく「魔王」と言うべき人物だったかもしれない。
ジュート人、アングル人、サクソン人らと何も変わらず、もっと古くはケルト人やブリトン人と同様に、デーン人も大陸からブリテン島への移住を試みただけである。その時を他に先行されただけで、どうして自分たちの移住は強く非難されなければならないのか?と強く抗議したかったであろうが、先住権とはどの地域でもそういうものであり、「勝ち取った者」「守り切った者」の主張のみが罷り通る。
日本列島だって、支那人や朝鮮人の横行を甘く見ていたら、半世紀後にでもどうなっているか分からない。「日本列島は日本人だけのものではない」などという耳を疑うような言葉を平然と言ってのけた首相も出て来るほど日本人には防衛意識が欠落している。ちょっと心配だ。ということはさて置き・・・

今では当たり前である兵役の交代制を導入したのはアルフレッド王であり、そういう事も含めて軍政改革を押し進めたが、その殆どはデーン人という難敵に対する工夫により生まれた。敵方の戦術研究に余念が無かった大王は、敵の"専売特許"であっても良いものは良いと認め積極的に自軍にも取り入れ改良を重ねた。何よりも情報収集に長けていた、つまり「情報」を重要視した大王は、敵が一枚岩でないことも理解して、デーン人であっても手を組めるとなったらリスク承知で手を組んだ。
後に、七つの海を制した大英帝国艦隊の「祖」とも言えるウェセックス王国海軍の創設こそ、大王の最たる軍政改革成果と言える(アルフレッドは、大英帝国海軍の父と云われる)。それもまた、デーン人の船を参考としたアルフレッド型軍艦を建造させたことが大きい。そして、フリースラントなどから水夫(恐らくはノルマン人=デーン人=ヴァイキング)を招致するなど、有能な"外国人"を積極的に登用した。ウェセックス王国海軍は幾つかの海戦で当時のデーン艦隊を木っ端みじん状態、海の藻屑と化すことが出来たが、王自らの功績が大である。

現在のイギリスの首都ロンドンもデーン人に占領され荒廃していたが、大王は、886年にロンドン奪回に成功する。
そもそもロンドンはエセックス王国の首都だった。

これまであまり多くを触れなかったが、エセックス王国では、デーン人とアングロサクソン人の共存が比較的上手く行っていた(共存という名のデーン人支配)。その理由として挙げらるのは・・・
(1)エセックスは早くから隣国ケント王国の影響を強く受けてカトリック信仰が進み、敬虔なキリスト教国家となっていたことによる。つまり、いざとなったらカトリックの大強国であったフランク王国の支援を受けやすい状態にあったとも言え、デーン人としてもフランクと事を構えるような"無駄な"リスクを負うことを避けていた?("必要な"リスクなら取ってみるのがヨーロッパ人の習性なので)
(2)隣接するマーシア王国の服属国的な状態が長く続いたことで、王家の権力は弱く、王による人民への鼓舞が効かずにデーン人と全面的に争うことをしなかった(現在の日本に似ている?)。

エグバート王の頃のウェセックスがマーシアのベオンウルフ王との戦いに勝って以降、エセックス王国は実質の王位をウェセックスに譲位する。しかし、ウェセックスによるエセックスの単独支配は、マーシアの強い抵抗で実現に至らず、更に、隣接の小国サリーが、その頃は結構な力を持ち侮れない存在としてエセックスに影響を及ぼしていたし、同様にイースト・アングリアも虎視眈々と狙っていた。ということで・・・
エセックスは、ケント、イースト・アングリア、サリー、そしてウェセックス(=マーシア含む)という周辺近隣4王国から影響を受けながらもサクソン人とデーン人の共同国家として在り続け、そういう中で首都ロンドンを中心にエセックスに対する実質的な支配を行っていたのはデーン人だった。この状況を、ロンドン奪還で一変させたのがアルフレッド。これでデーン人勢力はエセックスの中枢から追いやられる格好となったが、アルフレッドとアルフレッドの養子となったグスルムとの協議により、エセックスの結構な範囲がイースト・アングリアのデーンロウに組み込まれることとなった。

当時のウェールズは、北部のカレドニア(スコットランド)同様に、ブリタンニアのアングロサクソン人たちにとっては遠い世界の領域であり、ウェールズには幾つかのブリトン人小部族国家が乱立していた。しかし、小部族国家乱立状態のウェールズであっても、征服を試みた古代ローマ帝国軍団を退け、アングロサクソンやデーンにも侵されることはなかった。ブリタンニアは奪われても、ブリトン人がアングロサクソンに平伏したわけではなかった。故に、ウェールズは現代に於いても誇り高きウェールズなのだが・・・
交流が無かったウェールズとの文化的な交流を試みたのもアルフレッドだった。セント・デイヴィッツを出自とする高名な修道士アッサーに対して、アルフレッドは敬意・誠意を込めて請願し、遂に、アッサーをウェセックス王家の顧問とすることに成功する(885年)。後年のアルフレッドが最も信頼を寄せ、多くの時間語り合ったとされるアッサーは、890年代にソールズベリー主教を務めながら大王の伝記『アルフレッド王の生涯』を著す。その中で、イングランド史初期(七王国史)にも多く触れられていることで、イングランドの歴史書として最も高く評価されている。けれど、アッサーには深いウェールズ史も期待したかった(私余談)。アルフレッド自身が、アッサーに伝記の著述を依頼したのかどうかは定かではないが、アッサーはそれを書きたかったのでしょう。恐らくは、祖国ウェールズのブリトン人たちとアングロ・サクソン・ジュート、そしてデーン人なども含めて、ブリテン島やアイルランドの親和を図るために。
アルフレッドが大王と称されのは、ただ軍事的に傑出しただけではなく、王家の歴史、アングロサクソンその他の歴史について強く崇敬し大事にしたこと。それを後世に伝承する為に、アングロサクソン年代記の作成を行わせたことがある。歴史こそが未来であり、未来もまた歴史であることをアルフレッドはよく理解していた。故に、アッサーもそれに共鳴し協力したと言える。
アッサー招聘に際し、いやそれ以前より、アルフレッドは教育の重要性を理解し、宮廷学校を設立。自身の後継者たちは言うまでもなく、貴族の子などにも男女分け隔てなく教育を施した。そのような王であるからこそマーシア王オファの功績も正当評価し、自身もそれ(オファ法典)に倣いアルフレッド法典を編纂する。
アルフレッド法の特徴としては、旧約聖書などから神話を抜粋して宗教に傾倒していた人々を得心させるような秩序・規律の遵守を謳ったこと(まあ、その他の中世法典の殆どがそうでしょうけど)。アルフレッドは法の整備を推進し、地方行政区を明確にし、更に地方管轄制度を構築。それに伴う裁判制度改革などにより、ウェセックス領内の治安は大きく向上したとされる。


ただ強いだけでは「大王」として崇められることはない。アルフレッド王が大王として今でも崇敬されている理由は上述のことだけでも頷ける。が、如何に優れた大王を輩出出来ても、その大国を大国のまま永久に維持出来ないというのも歴史の中で数限りなく繰り返されたこと。そして、ウェセックスもそうなる。
"デーン人"に対し勝ち過ぎたアングロサクソンは、デーン人の故地に聳え立つ海洋帝国=デンマークを甘く見た。
(続く)