ウバイド2期は、紀元前4800年頃に始まり、紀元前4300年頃に次の進化(ウバイド3期)を起こします。

ウバイド2期では、明褐色地に黒紫色の幾何学文が描かれた土器が一般的となり、器の形も、壷、深鉢、浅鉢など種類が増えて行きます。古い神殿の建て替えが目立ちますが、古い神殿を壊した同じ場所に建てられている。この事により、「神聖な場所」であったり「代々の土地」であったり、いわゆる伝承や伝統、系譜などを明確に意識し始めたのがこの時代だったのかなと個人的にはそのように思います。

そしてウバイド2期の末期頃になると、彼らの文化力は他地域を凌駕する。古代オリエントで文化の最先端地域であったザグロス山脈山麓地域もその対象となり、約900年続いたと推定されているハラフ文化は、紀元前4400年頃に姿を消します。此方が勝手に想像するのは、平野部(ウバイド)と山麓部(ハラフ)の違いはあっても同じ出自で(ザグロス山脈の何処かの高原地帯)言葉が通じ合った彼らは、「信仰」の対象を同じとすることで文化の統一を成したのではないかという事です。

 

ハラフ文化というライバルがいなくなったウバイド文化の土器は、第3期(紀元前4300年頃~紀元前3900年頃)になるとメソポタミア全域に広く分布します。この頃の土器の特徴としては、模様が大まかになったことと、そもそも模様を描いていた部分が土器全体に対して小さくなったこと。つまり、模様という見た目の美しさより、土器としての機能を磨くことに重きが置かれたという事でしょうか。また、レヴァント地方やザグロス山地などの遺跡で出土したフリント石器製の鎌、斧、ハンマーなどの道具(工具)が、硬く焼き上げた粘土製としてウバイド3期の地層で出土します。文化の迎合と進化が繰り返されていたのでしょう。

土や煉瓦は多岐に渡って利用され、神殿も、土を盛り上げた基盤が用意されてその上に日干しされた煉瓦が積み重ねられる建築様式となっています。神殿内部にも変化が表れて、中央には広間、その周りにいくつかの部屋(控室や居間?)、祭壇は広間の端に設けられるようになる。この考え方が、現代宗教の寺院建築にも繋がっていった?

 

ウバイド文化の最終期である第4期(紀元前3900年頃から紀元前3500年頃)では、土器の模様は消した実用に徹した無文土器が急速に増える。生活直結の器が多く出土しているという事は、庶民経済が拡大し、"必需品が流通する時代"が到来したことを意味するのだと思います。

信仰面では土偶に変化が出て、表面色に緑色が多く取り入れられるようになり、顔は爬虫類に似せて目は吊り上がっている。自然を意識して、且つ何かに畏敬する様が土偶に表れているようにも思えます。神殿の基壇が高くなり、その上の建物は20×10メートルという大きさになった。祭壇の位置は中央広間の両端となり、供え物なのか魚の骨が出土しています。後の時代のエリドゥの神殿では、エンキという水の神が崇められるのですが、土偶の緑色や魚の骨から想像出来る事は、ウバイド4期から、既にエリドゥ神殿ではエンキが主神であったのではないか?という事。(※中央公論社の「世界の歴史」を参考)

 

1800年間にも及ぶウバイド文化期の生活の中でメソポタミア南部の環境に適応した生活様式が確立されて、それと共に社会的な発展が起きる。農業や建築の技術が大きく向上し、何よりも、人々の暮らしの中に土器が欠かせないものとなった。そして土器製造技術は、紀元前3500年を境に更なる発展を遂げる。轆轤の登場です(※もっと以前に登場していたかもしれませんが)。 紀元前3500年頃から、轆轤を用いた土器製作を行う文化が歴史の表舞台を彩りますが、その時代がウルク文化期と呼ばれ、いよいよメソポタミアに都市文化が興ります。