歴史の謎に誘われて

史話怪説BLOG

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シュメール文明を怪説(9)~農業革命(食料確保革命)こそが文明の礎~

南イラクの広範な平原。とは言え、そこは灼熱の大地。ムギの種子を蒔いたからって、ただ蒔いただけでムギが育つわけはない。が、「何でも出来る」と思ってそこへやって来た人たちは、大河から運河を引く、つまり灌漑工事をやってのけた。ニップールで見つかった粘土板地図の話も書きましたけど、時代こそ新しい時代の地図ですが、運河の様子がしっかりと描き込まれています。しかも、灌漑工事だけではなく、合理的な種蒔き器まで考案し実践したことが明らかになっている。

英国の発掘調査団が持ち勝った、ムギの種蒔きの様子を示す円形型の印章がオックスフォードのアシュモレアン博物館にあるらしいのですが、それには、一人の人物がウシに犂を引かせて大地を耕す図柄が彫られているとのこと。そして、犂の上部には漏斗状の道具が取り付けられている。この"装置"が優れもので、犂が大地を掘り返して溝をつけるとその上に漏斗の中に入れた種が一定の割合で自動的に落ちて行く仕組みになっているとのこと。人が、ウシを真っ直ぐ歩ませるだけで、自動的に地面が耕され、種も真っすぐ一列に蒔かれることになる。我が国の水田のようにきっちりと一列に育つ。効率的なので単位面積当たりの収穫量が増える。

収穫量がどれだけあったのか、それはラガシュで出土した紀元前2370年頃と推定される粘土板の記録を参考にすると、一粒のムギを蒔いて得られる収穫量はその76.1倍だったという。この収穫効率は、肥料や除草剤を使って集約的な生産を行っている現代農法に比べてもまったく引けを取らない量である。参考までに、中世のヨーロッパでは一粒の麦から得ていた収量はせいぜい5倍とされている。シュメールの文化人の方が遥かに優れていたことが証明出来る。もっと言えば、悲しい現実だが、現在のイラク人の田舎の農場?では、運河の堰を切って乾燥した農地を水で浸し、その上に小麦の種を放り投げて行く。大切な種をあまりにも無造作に蒔く為、5千年前のシュメールの人たちよりも遥かに劣っている。ハッキリ言えますが、イスラム教の弊害だと思う。それまでの文化をいとも簡単に破壊して先人に学ぶことをしなかった。故に、先人(シュメール以前からも連綿と続いた多神信仰の人たち)の考え方を参考出来ずに一からやるしかなかった。文化を進んだのではなく後退した。これは共産党がそれまでの文化を破壊し尽くした支那にも言えるが、支那はまだマシだったけど、太平洋戦争以降は、我が国の歩みよりも明らかに遅かった。今、慌てて追いついてまァ追い越した部分も多いでしょうけど、心の退化(他国を侮蔑し過ぎる)著しく、素養の面がまだ足りない。イラクも一緒だった。人類社会に於ける大先進地だったのに、最も遅れていた西欧に植民支配されるような羽目にもあった。シュメール他、この地の先人の歴史を尊敬し直して、再び、人類社会の良い面に功績を刻んで欲しいものです。支那はどうでもいいけど、イスラム教社会の革命的な発展を祈るばかり。

 

話を戻すと、ムギと灌漑技術を出会わせることに大成功したおかげで、シュメールは一大文明として開花した。季節や天候などの自然条件に左右されながらギリギリの食料を得ていた人々が、四季を通じて豊かに安定して食べていけるようになった。現代で言えば、最先端の半導体チップや斬新なコンピュータ(スマホ)のシステム(アプリ)の開発に匹敵する、いや人類にとってはそれ以上の思考と発明に思われる。

シュメール文明の最たる特徴とされる「非農民による都市の誕生」を可能としたのは、農民たちによる革新的農業生産技術が齎せた豊かな経済の基盤によるものです

 

現代の日本では、農業の見直しが盛んであり、有り得なかった地下栽培やビル内栽培など「ITを駆使した工場農法」と言えるものが次々と立ち上がっている。また、従来の農地でも品種改良技術はますます向上して、また新種野菜も登場して、今までの人類では食せなかったものが、加工以前の生産段階で生まれ出している。

有り得なかった灼熱大地での画期的な大農法を可能としたシュメールの人たちの歴史が実在したのだから、我が国が、農産超大国となっても何ら不思議ではない。(資源を)持たざる国と言われて久しいけれど、それ(資源)もあると分かっていながら外国との兼ね合いで手を出していない政府と公の大嘘だったことも分かっている。恐らく、外国への遠慮がなくなった暁には資源大国にもなれるでしょう。我が国の未来は暗いどころか全然明るい。太陽以上に明るいかもしれない。しかし・・・残念なことに特に若い子たちの中に後ろ向きで悲観的な思考が多過ぎて、前向きな思考の子たちとの間に大きな壁が出来ているように思う。それでは本当に宝の持ち腐れ。

そして、「農業をきつくて古臭いものとしか思わない脳みその腐った親たちの馬鹿な意見を鵜呑みにするな」とは言っておきたい。今からの若い日本人たちは、シュメール以上の偉大なる未来文明人になれる可能性を大いに秘めている。既存産業にばかり目をやらずに、新たな分野(逆に旧式に革命が起きている分野)に飛び込んだ方が大きな成功を得られるとも思う。それを出来るか出来ないかは、良い意味で、先人(明治~昭和、現在)の後ろ向きな思考を捨てる事。ご先祖様への尊敬は続けて当然だが、尊敬の仕方を変えてみることは大事です。

条件に恵まれない場所の方が、かえって革命的な新技術は生まれる」ことを最初に証明したのもシュメールの人たちであると言えますし、日本人にもそれを証明出来る力が秘められていると信じています。 

(今回は、前半部分は、NHK出版の『四大文明』のメソポタミア版の文章を引用・参考にしています)

 

※(10)へ続けます

シュメール文明を怪説(8)~ムギ~

紀元前数千年期の古代遺跡には似合わない夥しい数の弾丸(と言うより砲弾ですが)痕を受けたのは、何もウルに限ったわけではない。湾岸戦争で「ウルを攻撃したらならない」という声明を発表した人の数は圧倒的に欧米側に多かったが、湾岸戦争時のミサイルはしっかりとウルへも届いていた。しかも、ウルに駐屯した米兵は、遺跡を掘り起こして何らかの「土産物」を持ち帰ったとも噂されている。その後のイラク戦争、そして内戦やISISとの戦いなどで傷ついた、或いは破壊された古代遺跡群は、現代の戦争の愚かさを示す象徴ともなっているのだと思う。イラク人に限らず、何処の国・地域の人たちにも、折角の遺産を無駄にしていることに早く気付いて欲しいものです。

という話はさて置き、起伏の無い平原が続くメソポタミアでは、人工的に高い場所を造って神を迎えようとした。それがジッグラト。エジプトのピラミッドと建築様式は似ているものの、ピラミッドは墓(王墓)であるが、ジッグラトは神殿。どっちが先にそのような建築を始めたのかは論争が尽きない部分でしょうけど、ジッグラトが先にあってエジプトはそれが何かを理解出来なかったが何となく(見た目が)良さそうだったので権力者の墓に似合うと思ったのではなかろうか。すみません、此方の勝手な意見です。

 

ところで、初めてジッグラト(或いはエジプトのピラミッド)を観光に訪れた人、或いは二度目でも、三度目でも、兎に角、ジッグラトに上ってみたら、皆、不思議に思うらしい。「どうして、この灼熱に乾燥した土地に、人類最初の文明が花開いたのか」と。行ったことのない此方にもそれは不思議に思える。行ったことがなくても、現代の日本では様々な紀行番組があって映像で見れますからね。実際の暑さをそのまま体感することは不可能でも、少しは感じることが出来る。

当BLOGの他の記事に呆れるくらいに登場した「ムギ」がその答えなのですが、厳しい環境の中でも群生していた野生のムギにヒントを得て、それを「耕作」することが出来たことが文明開化の源となった。古代メソポタミアでムギの耕作が始まったのは今から約1万年以上も前。そのムギですが、日本人の知る麦とは異なり、西アジアの(野生の)麦は圧倒的に丈が低いとのこと。その差は、日本人が食する栽培麦の背丈が約80センチであるのに対して、西アジアの野生麦は約30センチにも満たないらしい。

背丈の低い野生麦は「病気に強い」らしい。そして栽培麦と逆で穂の下の方から順々に実り、自然に離脱するらしい。野生麦は実りの順に沿って子孫を残す為に徐々に風に飛ばされていく。そうやって群生の域を広める。一度には実らないので一気に収穫、ともならない。一気に収穫出来ないことが古代人には気に入られた。貯蔵していた食糧が底を尽く時に、ムギにはまた実がついていることを知った。ムギは年中?頼りになる、というわけで「耕作」が始まったとされる。

でも、そもそもムギは何処から飛んで来たのか?最初の発生地点はどうやら(やっぱり)現在のトルコ、アナトリア半島の山麓とからしいけど、だから、メソポタミア文明には、西も東もあったという話にもなる。つまり、確かにチグリスやユーフラテスの河口にシュメール文化などが花開いていくが、同様に、ムギが大量群生していたアナトリアにもシュメールほどの高度な文明は無くてもある程度の高い知識を持った人たちがいたであろう。古代フルリ語を話すフルリ人かもしれないし、やがてシュメールに溶け込んでゆくアムール人かもしれないし、その他の人びとかもしれない。でも、恐らくヒッタイトやアッシリアやミタンニ等々に繋がる何か縁を持つ人びとの文化がメソポタミアの西かもっと西、或いは北にあったと考えるのも自然なこと。だって、古代東欧にも結構早くから農耕が始まるわけですし、そういう人たちに近い位置にシュメールとは違う文化(文明)があったと思うのは不思議なことでもない。解明出来ていない古代はまだまだ多く埋もれている筈です。

 

例えば、現在知れている中でも最大級の麦の耕作証拠を残している遺跡「チャユヌ」は、トルコ・アナトリア高原に位置します。古代を深く知る学者たちの多くは、チャユヌ、或いはそれ以外であってもアナトリアを発祥とした麦の文化が現在のヨルダンや北イラク、イランなどへ伝わったと言っている。南イラクも、その流れの中でムギを覚えたと考えるのが自然です。南イラクには、アナトリア高原や北イラクなどにないものがあった。それが(灼熱の乾燥地とは言え)広大な平原。そこにムギの種子を蒔けば大量生産が出来ると考えた。暑さは我慢すればよい。とにかく大量の食料生産さえ可能になれば何とかなる。兎に角「何とかなる」「何でも出来る」という事で彼らはシュメール人となった。

 

※(9)へ続きます 

シュメール文明を怪説(7)~ウル・ナンム~

ニップールは、バクダッドの南東約160キロに位置する、紀元前6千年期末頃から居住が始まり、パルティア時代までの神殿建築物が連なる古代宗教都市遺跡です。都市全体が遺跡(放棄地)となったのは西暦800年頃。町が放棄された理由は、イスラム教の興りによって宗教都市としての権威が大きく失墜したからだと考えられる。(ニップールの現代名はニファルらしい)。

多神教のシュメール国家にあって、ニップールに祀られていたのがシュメールが信仰した神々の中でも最も重要視された神エンリル。ニップールは、エクル(「山の家」の意味を持つ)と呼ばれる神域を持ち、エンリルを祀る神殿の横には、ウル・ナンム王(ウル第三王朝を興した王:在位紀元前2115年頃~紀元前2095年頃)の建立とされるジッグラトが立っている。その南西には、女神イナンナを祀る神殿がある。近くの遺丘からはシュメール時代を映し出す重要な文学作品を刻む粘土板が多数(数万枚)出土していますが、最も重要視された一つがニップールの都市地図。城壁に囲まれた都市の中の神殿や濠、門や庭園、倉庫の位置などが精巧に書き込まれている。全体が発掘された結果、この地図が極めて具体的で、非常に正確な測量の結果作られた地図であることが判明している。つまり、発掘遺跡は地図通りのものだった。これにより、当時(この地図自体は、カッシート王朝時代の紀元前1300年頃のものと見られる)のシュメール文化の人たちは、既に三角測量の技術を知っていたとしか考えられないとされた。

ところで、このニップールの発掘調査ですが、湾岸戦争以降はストップしたことになっていて、それ以降ずっと戦争が続いたので多分復興出来ずに元の木阿弥と化しているのではないかな?因みに、湾岸戦争時の中東各国及び当時のイラク・フセイン大統領、米軍(国連軍)に対して世界中の学者と政治家達が「ウルだけは絶対に攻撃してはならない」と緊急共同声明を発したことは有名(でも、我が国からは一切そういう声は出ていないとも云われる。アメリカ様のポチだから米軍のやる通りを全面支援するだけ)。その時、「(人類最古の都市)ウルだけは・・・」だったので、ニップールだって重要、ウルクだって重要、当然だがバクダッドだって重要、イラク全土が重要とは言われていないのもちょっと物悲しい。イラクも、クウェートだってイスラエルだって重要だと認識出来ていなかったことがダメだったのだけどね。

さて、シュメールの事を書いていると、ずっと空想の中を旅したい思いに駆られて全然終わりが見えて来ない。それじゃあ、埒が明かないので、上述したウルク第三王朝が始まる頃へと飛ばします。 

 

その頃は、既にシュメール文化圏はかなり広範に広まっていた。そして、その文化圏を一つの国家に纏め上げようとする動きが各都市国家に起こる。ウルク第三王朝の唯一の王ルガルザゲシが最も有名ですが、その他多くの王が「天下統一」を夢見ていた、正に、古代支那や我が国の中世期の頃のような「群雄割拠」の戦乱の世。そして、最も勝ちを収めて領土を拡大したのがアッカド帝国(紀元前2334年頃~紀元前2119年頃)だった。しかしアッカドは、信仰の思想としてシュメールの他の王朝(都市国家)とは随分異なっていた。アッカドは、ニップール侵攻の際にエンリル像の破壊を行った。恐らく、この事で他のシュメール都市国家の殆ど全てから嫌われる。我が国で言えば、信長が比叡山その他を焼き討ちして反感を買ったとされるようなこと。そもそも、アッカドは、初代王サルゴンが謎多き人物であり、シュメール文化圏の人たちであったかどうかはまだ疑問の余地が残る。兎も角、ウルク第三王朝(ルガルザゲシ王)を打倒したサルゴンによって建国されたアッカド帝国は、シュメール文化圏の中に大きな領域を持つ帝国を建国した。が、サルゴンの子や孫たちの代へと引き続き繁栄するものの信仰の相違などで嫌われた。

アッカド帝国は滅亡する。アッカド滅亡前から再び群雄割拠時代へと逆行したシュメール文化圏を本格的に統一しようとしたのがウル・ナンム。

 

ウル・ナンム王は、ハンムラビ法典(紀元前1750年頃)よりも更に古い「ウル・ナンム法典」(恐らく、人類最古の明確な法典)を作った王として歴史に深く刻まれています。この王が重要視される理由は、勿論、最古法典にも拠りますが、この法典は、同害復讐法とも言えるハンムラビ法とは異なり、損害賠償に重点を置いた法であること。その対象は、殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・そして農地の荒廃なども含まれる。極刑対象は、殺人・強盗・強姦・姦通。そのようなことをしでかす者に困っていたことが伺える。農地を荒廃させることが罪とされたということは勝手に土地を逃げ出してはならないとも捉えることが出来、民には各々責任を持たせて生活させていたという事が裏付けられます。国民としての責任を持たされないない者は罰則規定も関係なくぶっ殺されるだけでょうから。

ウル・ナンム王の出自はよく分かっていないが、ウルク第5王朝の王ウトゥ・ヘガルの娘婿(義理の息子)となってから頭角を現したと云われています。ウトゥ・ヘガルの王政時代にウル市の知事となり、神殿建立にも携わったとの記録があるらしい。民を統率する為に最も重要視されていたのは信仰(宗教)の力であり、信仰の基盤である神殿を司る側にいたのなら当然軍事的にも影響力を持っていた事になります。そしてウトゥ・ヘガルの没後、ウル・ナンムはウルで王として即位(ウル第三王朝)。ウトゥ・ヘガルの後継者としての地位を固めた彼は、ウルを拠点にして他のシュメール都市国家を次々と統合(軍事的併合)を成した。そのことは知られていますが、軍事侵攻のルートなどは殆ど知られていない。記録として残されているのは、ラガシュ第2王朝の王ナンマハニを打倒したことだけとも云われます。では、どうしてウル第三王朝によって都市の単一国家から複合都市国家(広域国家連合体)が成されたと既定されたのかと言うと、ウル・ナンムによって行われた建築事業という粘土板文書が、ウルク、ニップール、ラルサなどで出土したことに拠ります。先んじたアッカドよりは、ウル第三王朝こそが、シュメール文化圏を一纏めにして「シュメール国家」として変貌させる土台となったとも云われている。

ウル・ナンム王は、メソポタミアの覇権を握ると、それ以降は建築事業にまい進。特にアッカド帝国によって破壊されたとされる各地のジッグラトを再建し、または拡張します。ウル・ナンム王の建立として知られるウル市の月神ナンナの神殿は、それ以前のあらゆる建造物より巨大な神殿であったとされ、王の権威が強大なものであったことが窺えます。ウル第3王朝は栄華を極め、シュメール文化の黄金時代を築きます。因みに、ナンムという名は海の女神ナンムから取った名で、自らを「女神ナンムの召使」と称したとされる。上述したニップールの女神イナンナの神殿も含め、現代中東の男尊女卑社会が嘘のような話です。(※恐らく、女神イナンナと女神ナンムは同じで、どっちの発音に合わせるかの違いのみでしょう)。

ところで、アッカド帝国って現代で言うISISのようでもありますね。

ルガルザゲシ(ウルク第三王朝)とサルゴンのアッカド帝国については以前簡単に書いてますので参照記事として紹介しておきます(=≫アッカド帝国の興亡)。

 

※(7)へ続けます

シュメール文明を怪説(6)~国家の興亡~

自分たちの考え方(文化・規律)とは違う者達に対して、力を行使して自分たちの考え方を受け入れることを強要する。その考え方に従えるなら自分たちの"仲間"として同化させるが、従えないなら差別化して最終的には排除する。この場合の排除とは、自分たちの領域からの永久追放、或いは滅亡させることを意味する。この手法(圧倒的な力を以て他を従わせるやり方)で"国家"を発展させた最初の人たちがシュメール文化の人たちだったと云われている。

メソポタミアに高度な文明を齎せたシュメールの文化は、それまでの人たちの文化とはまるで違った。斬新な考え方に基づく高度な技術、その技術力と政治統率力に裏打ちされた軍事力は周辺の部族・都市国家を凌駕する。シュメールは自分たちの正しさを確信してこの地域一帯を次々と自分たちの考え方に同化させて行く。国家の単位が「都市」であったのを、都市と都市を結び付け(=都市同盟)、更にその先の都市も同化させるなど、国家は都市の連合体と化した。即ち、国家の領域が部族単位ではなく思考単位(政治思考単位)或いは、文化単位(信仰や思想含む)に拡大した。都市という捉え方も、先に部族の居住区ありきではなくなった。都市自体が国家へと発展するスタイルから、一つの国家の考え方の下に新たな都市が誕生するという「国家の意向を反映した都市づくり」という新たなスタイルが始まった。

国家=都市であったのが、国家=複数都市の集合体となったのでその各都市をコントロールする主都市が必要となる。そこは当然の如く「王都」となる。王都の主たる王や王に近しい者達は、どうしても"自分達の王都"を煌びやかにし、その煌びやかさを守備する為に最強軍隊を王都に置く。(この話は、後半に繋げます)。

 

自分達にとって正しいものが他人にも正しいとは限らない。自分達にとって凄く便利なものであっても他人にとってどうしても必要なものとは限らない。自分達の美味しい料理が他人にも美味しく感じられるとは限らない。自分達の尊敬する対象が他人には軽蔑の対象となることもある。自分達の美男美女は他人には醜悪に見えることもある。自分達にとって臭いものが他人には何も感じないこともある。自分達には耳障りな音が他人にはそうではないこともある。自分達の痛みや苦しみは他人には何ともないことだってある。・・・。

視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚など総じて「感覚」が違うのが人間の面白さ。そして、「面白い感覚」が異なることこそが人を好き合う嫌い合うきっかけの最大要因になる。

自分にとって面白いことは他人にとって不愉快極まりない場合が多々ある。面白さを受け入れさせようとすると途端に条件反射され攻撃を受ける。そのような事件が巷に溢れていることは我が国でも報道などでよく知られている。ところが、巷に溢れているのに自分達にだけはそのようなことが起きないと思うのも人間の性。自分達の愉快さ、愉快さ故の声高らかさ、声高らかさ故の傲慢な態度が、知らずゞして他人の鼻をつく。耳に障る。そして大いに嫌われる。ということに気付けない人たちは多い。

 

自分たちの領域が狭ければ、大した影響力を持たなければ、不愉快にさせる範囲も大したことはない。しかし、例えば現代の国連安保常任理事国クラスのような「大国」になれば、その大国の影響力に比例して不愉快に思う相手も増加する。それまでの都市国家の領域を遥かに超えて拡大した「シュメール国家」は、さながら現代の超大国であった。超大国の噂は風(時代の風)に乗り、遠い地域へも音に聞こえる。

超大国の繁栄の噂に憧れる者も出て来る反面、地域領主たちは警戒感を持つ。自分たちの権威の下に民が従っていた歴史を、知らない国家の文化によって覆されるのだ。現在の北朝鮮の主や支那共産党その他が、自国の自由と民主化を極端に恐れているようなものです。それをメソポタミアの古代に当て嵌めれば、シュメールの文化に憧れる者もいれば、それを要らないと考える者もいたのも当然のこと。

シュメールの文化は、新しい秩序でもあるが、その新しい秩序を受け入れられない地域領主達との戦いの日々が、シュメールの歴史でもある。国史は戦史とも言われるがその言葉もシュメールの興亡で生まれたのかも?

敵(周辺国家)を倒せば、その先にまた次の敵(新しい周辺国家)が現れる。文化発展は、敵を出現させる旅でもあった。それはロールプレイングゲームなどで、ゲーム中の段階(レベル)が上がれば上がるほど主人公の力も上がるが現れる敵の強さも上がるのと一緒。そしてとんでもない敵も登場するのは現実の世界もゲームの世界も同じだ。仲間にならなければ打ち倒すしかない。話し合いが通用しなければ戦うしかない。が、とんでもない敵であればさすがに出方を伺うものだ。

 

ところで、相手に対してお互いに「とんでもない敵」と認め合った場合、「両雄並立」が出来る条件を探り合う。その探り合いが正に話し合いだが、話が通じれば良いけど話が通じない相手とは武力均衡を図るしかない。相手をそれ以上進めさせず立ち止まらせるだけの防衛力を持とうとする。持っている防衛力を見せつけようとする。見せなければ相手は信用しない。変な意味、お互いの軍事力を信じ合えてこそ武力均衡による「両雄並立」は成り立つ。つまり、相手が圧倒的な軍事力を持っているならこっちも圧倒的な軍事力を持つ。それは嘗てのアメリカ合衆国とソビエト連邦の軍拡競争に類するが、この2カ国は本当に馬鹿だから、それを核攻撃能力とそれを活かす為の"飛び道具"の開発競争に持ち込んだ。超大国同士がそんなことをやれば、核こそが(大国とも)軍事均衡を図れる道具になると考える国家は当然出て来るわけで、支那はその通りに核攻撃能力を持って超大国となった。支那からの侵略に対抗しようとするインド、更にインドに対抗する隣国パキスタンが核開発に成功した時、核武装は大国の域を抜け出た。そして今、正に北朝鮮が核攻撃能力による大国化を図ろうとしている。

繰り返しますが、話が通じない相手との戦いを回避する手段として最も有効なのは、お互いの圧倒的な軍事力であることを否定出来ない。話が通じない相手に対して「話し合え」と言い続けるのは、相手に対して時間的な余裕を与えるだけであり、北朝鮮はその「時間」を得たことで核開発とミサイル開発をほぼ成し遂げてしまった。

とんでもない軍事能力を持った相手に対して、自身の力を少しでも疑う余地があれば慎重にならざるを得ない。が、慎重にはなっても、話が通じない相手のことを好きになるわけではない。寧ろ、憎悪の気持ちの方がより一層強くなる。相手が少しでもスキを見せれば倒そうとする。それが人間本来の本能。

北朝鮮が核攻撃能力を保有したがったのはある意味人間らしい行動とも言えるが、アメリカ合衆国との間にはまだ圧倒的な力の差がある。しかし、アメリカ合衆国は馬鹿ではない。北朝鮮の国家力は取るに足らないが、「核」に対しては慎重にならざるを得ない。アメリカ合衆国が今対峙しているのは、核の武器化を成してしまった自国の罪深さかもしれないが、兎も角、唯一核攻撃を行った側として核の恐ろしさを知っているアメリカ合衆国は、今度は自分たちがその被害者となることを恐れている。北朝鮮を取るに足らない相手だと言いつつも、北朝鮮の軍事力の進化に対して不安を隠せずにいる。不安がなければ、イラクに行ったようにとっくに攻撃している。それが行えないのだから、核こそが軍事均衡を保てるということを世界中が知った。

 

現代の武力均衡手段として最も有効な核だが、古代にはその武器の存在はない。他を凌駕する圧倒的な武器は「国家の図体」同様に、「軍隊」そのものの威容さだった。が、国家領域が大きくなり過ぎたシュメールは、王都から前線までの距離がかなり開いた。守る範囲が広がり過ぎて結局前線の守備隊は人手不足となる。我が国が、尖閣防衛にばかり人数をかけられないことと同じ理屈。繁栄を続ける王都の兵は最強のエリートと化す。王都の人たちこそが、エリート兵なのだから、エリートとしての暮らしを満喫出来る王都を出たがらなくなる。遠い前線での暮らしを望まない。こういう具合になって来ると、国の中枢部(王都のエリート)は外国知らずの自国称賛派ばかりになって行く。戦わない軍人貴族は私腹を肥やすことに専念。それでは前線兵のモチベーションは上がらない。

モチベーションが上がらない最前兵に対して、相手は国家防衛しようと必死な最強兵なのだ。そういう繰り返しになって来るといつかは負ける。負け知らずの軍団が一度大失敗すると途端に連敗する。怖くなるから傭兵を頼る。強い傭兵を頼る、強い傭兵を大量に頼る。財政悪化する・・・かな?財政悪化は分からないが、傭兵、即ち協力してくれる他部族の内部流入が始まる。つまり、「自分たちとは考え方が合わない」者達との共存が始まる。

王とは考えが合わない、王都には相応しくない者達でも国民化していくわけで、年数が経てば経つだけそのような「地方」から王都にやって来る者の数が増える。その時、いつまでも専制君主制を守ろうとするのか、自由・民主化するのか。取り敢えず、シュメールは他部族の自由を受け入れずに強大な王政を守ろうとして崩壊の一途を辿ってゆく。

現在まで、多くの(大国化した)王国がシュメールと同じ道を辿っている。シュメールにはまだまだ学ぶべきことが多い。

 

※(7)へ続けます

メソポタミアとキリスト教

旧約聖書には、パレスチナ及びイスラエルだけが描かれているわけではなく、ウルク、ウル、カルデア、バビロン、シュシャン(=スーサ)、カラハ、ニネヴェといった古代都市(都市国家)の名が登場する。また、ノアの箱舟やバベルの塔、カナン、ソドムとゴモラ、六つの逃れの町、その他、心誘うエピソードがふんだんに盛り込まれている。ローマ神話が、アイネイアスに率いられたトロイア人の辛苦の旅を題材に書かれているように、聖書は、ユダヤ人の旅路(歴史)とも捉えられる。

聖書の主たる舞台となった"メソポタミア"ですが、7世紀以降はイスラム教徒達の支配圏となった。イスラム教徒とキリスト教徒が激しく対立していく中で、イスラム圏となったメソポタミアの地は、キリスト教徒達が容易に行ける場所ではなくなった。しかしながら、逆にその事によって、ヨーロッパのキリスト教徒達のメソポタミアに対する慕情の思いは強くなる。聖書に親しむ人が増えれば増えるだけ、メソポタミアは、キリスト教徒達にとっての「精神的な故郷」としての色付けが濃くなった。メソポタミアに行き辛くなったキリスト教徒達にしてみたら、メソポタミア全体が神秘的な「エデンの園」であり、そこを(異教徒に)「奪われた」思いが積もって行ったとも考えられる。確かに、宗教の興りの順序的には、後発のイスラム教徒に乗っ取られたという事になるが、結局、国家と宗教は切っても切れない関係でもあり、国家が消滅すれば宗教色も消されるというのが運命の定めのようなもの。

 

そもそも、自由な多神教社会であったメソポタミアの信仰の世界に対して、「一神教」を持ち込もうとしたのは古代イスラエルのユダヤ人達。世界の高名な歴史家達の言い方を参考にするならば、「メソポタミアは多神教という一つの宗教社会だった」となるのですが、兎も角、色々な神が認められていたからこそ色々な神が祀られる神殿が点在したわけです。それはギリシャ世界も同様だった。我が国の古神道も、神道という中で様々な神を崇め奉った。天照大神だけが信仰されたわけではない事は、各地の神社へ詣でられる人たちには分かり切っていること。神道は多神の世界であるからこそ統一した聖書のようなものもなく、「神話」によって成り立っている。そもそも、靖国神社や各地の護国神社のように、国家に殉じたとされる人たちが支柱となっている特殊な神社にさえ人びとは参詣する。山も信仰し、湖も信仰し、海も信仰し・・・という我が国と同じような世界が我が国よりももっと早く先行したのがメソポタミアの社会だった。

多神教ではなく、一神教的な考えが強まった(強めた)のはユダヤ教の登場に起因するとも言えるけど、イスラエルを凌駕する地域大国(と言うより当時の超大国)ペルシアを中心とした社会はゾロアスター教を信仰するようになった。が、ペルシアが衰退すると、やがてその地にはイスラム教が登場する。これがキリスト教であったら、或いはヒンドゥ教であったら世界はまるで違っていただろうけど、メソポタミア世界は、イスラムにこそ新たな宗教の扉を開いた。そして、強烈な一神教の社会が築かれて行く。

何処よりも戒律の厳しい(一神教の)イスラム圏へは、ユダヤ教やキリスト教などの他宗教(特に一神教)を信仰する者達は近寄り難くなった。逆に、イベリア半島や東欧がそうであったように、イスラム教徒たちがヨーロッパをイスラムに染め上げようと侵略を繰り返す。キリスト教徒達(ユダヤ教徒も)にとって、精神的故地「エデンの園」を破壊したイスラム教徒は完全な敵となった。

 

英国に起こった産業革命によってヨーロッパ社会は劇的に変化する。ヨーロッパの諸国家の戦闘能力は飛躍的に進歩して(それを進歩とは呼びたくないが)、ヨーロッパ以外の他地域との間に圧倒的な差を付ける。それよりも前の大航海時代以降、既に北米は、ヨーロッパ人の移住地となり、アメリカ合衆国やカナダとなる国家基盤が築かれつつあった。更に、アフリカ各地や東南アジアや中南米で、「布教」を口実としたキリスト教徒達によって前文化の略奪・破壊が繰り返された。が、メソポタミアには強力な大国の歴史が連なり、ヨーロッパの列強と言えども簡単には植民出来ない状況だった。そもそも、東ローマ(ビザンチン)帝国に対して尊敬を失っていない者達も多く、辛うじて東ローマ帝国の匂いが残っていた頃までは、そこがトルコ(オスマン帝国)の支配地となろうとも、他の大陸に対したような「強引な侵略~破壊」は気が引けたのであろう。トルコ人こそがローマ人でもあるのだから、「ぶっ殺す」とも言えない。しかし、産業革命はヨーロッパ人を「古代世界」から遠ざけることにも"成功"したわけで、ローマ(東ローマ)に対する尊敬もいつしか消えていく。そして、オスマン帝国は時には敵視も受けて、ヨーロッパの産業発展とは歩調を合わせられなくなって行った。

オスマンが弱体化すると、もうヨーロッパ人たちは遠慮しなくなる。メソポタミアに対しても、ヨーロッパ国家の植民地化が開始される。ヨーロッパのキリスト教徒達の欲望からは、イスラム教徒達の国家も免れることは出来なかった。

さて、キリスト教徒達にとって危険度が薄まった地域へは、特に18世紀後半からですが、欧米人の探検者や旅行者が先を争うように殺到する。「エデンの園」であるメソポタミア各地の遺跡群は欧米人の目を釘付けにして、更に、各地に伝わる黄金伝説も重なって、遺跡発掘調査が一気に加速する。

というのが現代の考古学の流れなので、歴史解明には欧米人の侵略熱が一役も二役も買ったと言えなくもないが、大発掘ブーム・大旅行ブームも、第一次~第二次世界大戦や中東戦争、湾岸戦争、イラク戦争、そしてISISの登場と続いた戦争・戦乱の嵐によって吹き飛ばされた。今、イラクやシリア、トルコなどの発掘は命がけ、というより殆ど不可能。それ以前に多くが破壊されてしまった。キリスト教徒たちのメソポタミアに対した熱の入れようが逆にメソポタミア地域の歴史を消滅させたことになる。遺跡発掘で済ませていれば良かったのに、石油その他鉱脈資源に目が眩み、結局それが戦争の繰り返しの要因となったのは残念です。

ということで・・・

この話、どう続けて古代社会の何処を書こうか?

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