歴史の謎に誘われて

史話怪説BLOG

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古代ヨーロッパの文化怪説(7)~古代フランス2~

古代の刀をイメージして、"何々ブレード"と名付けられた剣を武器に活躍する話は、ゲームや映画の題材としてよく使われています。しかし、ブレードは必ずしも刀剣のような武器を意味するものではなく、武器的な意味で用いる場合はソードが正しいように思えます(あくまで個人観)。ソードの登場は新人類登場後になると思うのですが、ブレードなら旧石器時代から存在する。そして、石器時代の武器の主流はアックス(斧)や木の棒。それ以前に、石そのもので殴ったり投げたりした。「投げる」という行為も、最初は「当たるも八卦」と闇雲に投げていたのかもしれない。命中させる為の投げ方も進化(知恵)の対象だと思う。投げ方は現代も進化を続け、投てき種目や、野球やアメフトやラグビーやハンドボールやバスケでも新たな投げ方が生まれていく。と言うようなことはさて置いて・・・

オーリニャック文化の石器は、その大部分がブレード本来の意味である細長く、薄い、左右の縁が平行である石片を加工するブレード技法を以て作られています。ブレード技法とは、予め、円柱状か円錐状の形に整えた石核を連続的に打ち剥した石片を、採れた形によって用途分けする原始的な方法。そして、この技法を編み出すために人類が費やした時間を思えば、何も知らない上で新たな知恵を付けるということが如何に大変なことかよく分かります。

尚、石核を打つ(削る)道具はスクレイパー(それも元々石を打って剥ぎ取った)と呼ばれる"へら"の役割を持った石刃。このスクレイパーの考え方は現代にもずっと生き続けていて、建設機械の進化には欠かせない技術です。

 

その流域には美しい渓谷が広がりを見せるドルドーニュ川ですが、その支流のベゼール川には世界的に有名なベゼール渓谷が在って、夏には多くの観光客が訪れる(とか書いても此方が行ったわけではない)。ベゼール渓谷にはラスコーやレゼジーという洞窟があり、その洞窟や遺跡を総じて「レゼジー地方遺跡群」と称されることもあるみたいです。この地方(レゼジー)と言い表すべきか、この渓谷(ベゼール)との表記が正しいのかは分かりませんが、兎に角この一帯は、クロマニヨン人の時代には"大都市"で、最も多くの人口を有していたと云われます。

オーリニャック文化では石器だけでなく、骨や角を"加工した"針、錐、銛が出土していますが、ドルドーニュ川とその支流に沿ってクロマニヨン人達は、魚釣り、やってましたかね?クロマニヨン人と一緒にのんびりと川釣りしてみたいかな。ラスコーやレゼジー他多数の洞窟壁画にウシやウマやシカなどが描かれていますが、明らかに"神聖な家畜"として大切にしていたのでしょう。同じように(母体として)大切にされた女性は描かれたり彫刻像にもなっていますが、男性は目立たない。男性彫刻は欲しがられなかったのでしょうか。やっぱり、女性よりはモデルとしての魅力が薄かった?古代人から女性の方が重宝され、故に男は、"好みの"女性を手に入れられる力を欲したのでしょう。

 

クロマニヨン人がレゼジー地方に生活圏を築いた最初は、紀元前3万5千年前後頃と言われ、紀元前1万5千年頃にかけて栄え、ドルドーニュの流れに沿うよう拡大します。が、(現代から見て)最後の氷河期が訪れる。そして氷河期の終わった頃のフランスでは、クロマニヨン人達の姿は主役の座からは消えていた。氷の世界では屈強だった彼ら(クロマニヨン人)ですが、温暖気候(暑さ)には耐えられない体質だったのでしょうかね。此方は、表面上の無駄毛が自然と消えて行っただけで、ホモ・サピエンス・サピエンス(新人類)もホモ・サピエンス(旧人類)も一緒のような気がするのですが。まぁ、学者が別ものと言うのを否定出来るわけないし、氷河期の終わりは、新人類の時代の幕開けとなった、という事で先を続けます。

 

後氷河期の環境の特徴を一言で表すなら、"ツンドラ地帯の森林化"。深い森が出来上がり、湿地帯も広がり、植物の群生具合もそれまでとはまるで異なって来る。そしてマンモスのような大型獣の出現が激減し、それと代わって森や草原に小動物の姿が多く見受けられていく。人類は、森の豊富な木の実を採取する他に、これらの小動物を獲物として狙う。が、大型獣を仕留める為の石器は使い勝手が悪く、槍を用いる(突くや投げる)捕獲法では迅速な小動物相手には役に立たなくなって行く。そこで知恵の進化が起きる。小さい獲物には小さく軽い武器を。という事で、紀元前8千年前後には、細石器の時代が到来します。それと同時に、弓矢も登場したと云われます。

フランス北部に位置するタルドノワ遺跡には、紀元前8000年頃から前5000年頃とされる細石器文化が出土しています。クロマニヨン人の時代に主役だった南フランスからいきなり北フランスが舞台となるのですが、この頃の人類は、暖かさを求めるのではなく冷たさを求めたのかもしれません(勝手な怪説)。が、細石器文化は中石器時代を通して確実に南下して行く。フランス中部や南部に新たなる文化(新石器時代)が起こり、そして金属の時代へと向かっていきます。

 

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古代ヨーロッパの文化怪説(6)~古代フランス1~

南フランスと言えば、コート・ダ・ジュールという地名が思い浮かぶ人も少なくないと思います。コート・ダ・ジュールと近接するアルプ=マリティーム県には、約80万年前の原始石器時代のものとされるヴァローネ遺跡が発見されています。また、ヴァローネからは西へ大きく離れていますが、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏を中心に、約30万年前から約3万年前まで続いたと推定されているムスティエ文化の遺跡郡が発見されています。(発生は約9万年前からという説もありますが)ムスティエ文化圏に共通する石器の型式学上の特徴は、ルヴァロワ型石核を用いた剥片剥離とされ、削器と尖頭器が多数発見されています。古代ムスティエ文化時代は、人種的にはネアンデルタール人最盛期ですが、同時代層の人骨からは、古典的ネアンデルタール人とは異なる変種(現世人類タイプ=クロマニヨン人の旧種?)も発見されています。先史時代のヨーロッパはまだまだ知られていない事実が一杯ありそうです(ありそう、ではなくて間違いなくあるでしょう)。ホモ・サピエンスの登場はもっと早い時代だった可能性も十分あるし、ネアンデルタールとクロマニヨンの混血型もあって不思議ではない。

 

ネアンデルタール人のムスティエ文化から、クロマニヨン人のオーリニャック文化へと時代が変遷する一瞬(一瞬と言ったって約4千年と推定される長い期間)、シャテルペロン文化と称される独自文化の時代の存在が認識されています。文化圏は、アキテーヌからイベリア半島北部辺りに分布していて、フランス先史時代の"文化"がピレネー山脈を越える範囲まで影響を及ぼしていたことは確かです。ところで、シャテルペロン文化が発見された当時は、クロマニヨン人に類するホモ・サピエンスが営んだ地方文化という見方だったのが、否ネアンデルタール人の文化だという声が多数を占めるようになり、ネアンデルタール人文化の最終型のように捉えられています。でもその事により、ネアンデルタール人の存在が約3万6千年前に絶滅から、約3万年前まで生きていたと修正されることになったわけです。そして、先述したようにムスティエ文化の終わりも約3万年前となった。つまり、約4千年間、ムスティエ文化とシャテルペロン文化は異文化として共存したことになります。

 

洞窟壁画や彫刻を始めた文化として有名なオーリニャック文化は、それまでの文化とは格段に文化的に進化したとされ、ネアンデルタール人とは明らかに違うとも云われ、ホモ・サピエンス型のクロマニヨン人と命名される。ドルドーニュ県ヴェゼール渓谷モンティニャック村のラスコー洞窟の洞窟壁画は、オーリニャック文化を代表する壁画として世界的に知られています。

オーリニャック文化圏の石器と似た形の石器は、バルカン半島や東欧、西アジア、支那、アフリカ中西部などでも出土しています。が、オーリニャックと同一文化と見做される範囲は、現在のベルギーからスペイン、更にイタリアに限定されています。そうであるならば、その範囲が、明確にクロマニヨン人文化圏ということに確立すれば良いのですが、進化を止めようとしない研究・学問の世界は、確定を嫌います。だから、この先も色んな説が生まれては承認されるか消えていきます。既成の説が覆されるケースも出て来るでしょうし、今まで教わったことが全否定される事もあるでしょう。過去を否定されることを忌み嫌う人は物凄く多いのですが、研究者は、過去の証明をする為の仕事ばかりではなく、過去を否定して新事実を証明する為の仕事もしている。新事実が欲しくない人は徹底的に頭の堅い守旧派として生きるしかない、という事です。

東欧の農耕文化にせよ、西欧のそれらにせよ、必ずしも古代オリエントやアフリカ中西部から流れて来なければならない理由は何もない。ヨーロッパの山岳、洞窟で氷河期を生き延びた人達が、独自に定住型農耕文化を生み出した可能性は十分にある。それなのに、「世界4大文明」という言葉に拘る日本の歴史学者や歴史好きを自認する人達は守旧派過ぎると思います。日本もそろそろ4大文明の言葉を不使用にして、「世界五大文明」に統一するべきでは?山河環境と石器・土器作りの資源面で恵まれていたヨーロッパこそ古代先進地の可能性があったとも思えます。百年後の歴史教科書は、古代史の部分に関しては現在とは違う内容ではないですかね。現代の子ども達は、未来の孫達、ひ孫達と、歴史認識が噛み合わないかもね。

 

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古代ヨーロッパの文化怪説(5)~川の流れと海の潮流~

紀元前7500年頃よりもっと古い頃に始まった東欧の農耕文化は、3千年以上の時を費やしドナウ川の上流まで遡ります。そして其処から更にライン川流域へ連なる。ドナウ川では、下流から上流へ流れを切り裂いて駆け上がった為に"強い抵抗にも遭い"時間も相当掛かったと曲説出来ます。が、逆にライン川流域の文化の広まりは上流から下流域へと、流れに順応し拡大する。アーヘン、ケルンなど(現)ドイツの流域に定住農耕村落が形成されるとその流れは(現)オランダへと一気に到達します。そもそも、ネアンデルタール人の骨がたくさん出土しているドイツですから、もっともっと古い太古の時代から人類の"足跡"は繰り返し付けられていたのでしょうけど・・・

紀元前4500年頃まで数千年を要した文化の流れは、僅か500年で(紀元前4千年末期頃までに)ライン川流域の全てへ広まった。その流れは新たなる土器(=帯文土器)を伴っていました。壷や鉢の表面に二本の平行刻線単位として曲線模様を描き、その線のところどころに刺突文を打つという独特の表現法が成された帯文土器文化は、その特徴を集落を形成する家屋にも活かされます。

帯文土器文化圏の家屋はロングハウスと呼ばれる長方形の細長い家屋です。奥行幅6,7メートルに対して長さが20メートル、場合によると40メートル以上にもなる。ケルンに近いランゲヴァイラー遺跡(そんなに有名でもない?)では、そのようなロングハウスが140メートル程の間隔を空けて建てられていた。 そしてそれらの細長い家屋は全て長辺を北西から南東の方角に合わせられていた。その事から考えられるのは、敷地(領地)や隣家を意識したり、日照を意識したり、そうでなければ方角信仰のようなものがあったのでしょうか。

栽培対象は、エンメルとアインコルンの2種類のコムギ、オオムギ、レンズマメ、亜麻など。そしてヘーゼルナッツなどの堅果が季節に応じて住民総出で収穫されたらしい?家畜で確実なのはウシですが、他にもいたでしょうね。食していた穀物類はメソポタミアでもヨーロッパでも似ていますので、味覚や摂取栄養などは似ていたのでしょう。現在も、宗教や服装の違いはあってもアラブ系とヨーロッパ系の人達の見た目は、日本ととヨーロッパほどの大きな違いはないですからね。

 

文化の流れは一方向に留まらない。良いものは多方向に拡散します。時を大きく戻しますが、バルカン半島で広まった農耕文化は、川がなければ広まらなかったわけではない。アドリア海やそして地中海沿いにも文化は広まっていきます。寧ろ、海の潮流の方が波高く押し寄せる力も強く根付いて行った。

紀元前5500年頃から紀元前5000年にかけて、(現)イタリアのアドリア海沿岸部と地中継沿岸部に広まったのがカルディアル文化。土器の特徴としては、表面にカルディウム属の貝殻を押し付けた櫛目のような模様を持つものです。これは、同じ時代のギリシャやバルカンの幾何学文土器とは一線を異なる全くの独自文化とされます。という事は、クレタ島やテッサリアに流れて来た文化が実はイタリアなどへも同じ時期に流れていた?とも考えられます。住民の大小で花開く時期に千年以上の時間差が生じたかもしれませんが、(当時の)イタリア半島にはイタリア半島なりの"文化解釈"があり、それがカルディアル文化として静かに根付き花開いた・・・とか?

イタリアのパゾ・ディ・コルヴァでは、集落が540×870メートルの広がりを持ち、周囲には溝が掘られていました。そしてその内側に100軒以上の住居があり、それぞれが直径10メートルほどの半円形に溝を掘り、その半円の中に長方形の家を建てるというもの。この建築様式も同時代の他地域には見られないものらしい。この"現象"の解釈をすると、中石器時代にこの地域に根付いていた"文化"は完全な死滅をせずに受け継がれ、この時代に進化を遂げたという事も有り得ます。クロマニヨン人の根拠地(南フランス)にイタリアは近いですからね。まだ知られていない歴史はあって何も不思議ではない。以前、ブロッホの事に触れましたが(=≫参照記事)紀元前5千年期にブリテン諸島に普及している農耕文化には、イタリアや地中海の匂いが感じられる。海が繋がっている限り、その潮流は止められない。

そして、イタリア半島の文化は、その南フランスへと向かいます。

紀元前5000年頃を過ぎると赤く色を塗った上に貝殻圧痕文をつける土器が一般的となったイタリアや南フランスの農耕文化は千年ほど続いた後に、シャッセー文化(シャセイ文化)に主役の座を取って代わられます。

 

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古代ヨーロッパの文化怪説(4)~ヴィンチャ~

古代ヨーロッパの農耕文化は人口増加を伴い急速は発展と拡大、更に居住・生活に対する進化iを齎せます。

ところで考古学の世界では、人口の推定はほぼ不可能に近いことらしい。ですが、仮に一人の居住スペースが10㎡の床面積を占めるとして、遺跡の広がりの60%が同時に機能した場合を計算すると、カラノヴォ遺跡でも300人の居住が上限ではないかと中央公論社の「世界の歴史」には著述されています。その計算根拠となるカラノヴォの住居は、10×4メートル、或いは12×6メートルなどの長方形型が主流であり、時に正方形型もあったとされる。一部屋だけ独立した造りとなっていて、壁は細い丸木を立てて芯とし、その周囲に土が塗られている。住居としての家屋以外には、例えば神殿のような特別な建物はなかったとされます。

 

紀元前4500年頃から紀元前4000年頃にかけて、農耕文化は更に広まり、その範囲は現在のポーランドからドイツ、更にオランダ辺りまで及びます。最初に農耕文化が起きたテッサリアやバルカン地域では農耕を主軸とした生活文化は安定し、人口も着実に増えた。この頃のカラノヴォの地層の大きな変化として、家屋が3部屋を持つようになり、その中央には居間が作られます。より「居住」を意識した家づくりになったということです。

現在のセルビアの首都ベオグラード近くに発祥したヴィンチャ文化は、古ヨーロッパ文字(=ヴィンチャ文字)を持ったことで有名ですが、ヴィンチャはこの頃に特異な発展を見せています。集落の中で土偶が多く集まる部分があったり、同時代の遺跡の中でもヴィンチャだけが異常に大量の黒曜石を保有している。遺跡内部や遺跡と遺跡の間に役割の違いも認められ、地位の違いが生じたことを伺わせるものです。明確にはなっていませんが、恐らくは、特別な統治者(王か祭主)が存在したのではないかと考えます。

ヴィンチャ文化の特殊なものとして粘土板が出土しますが、直径6センチほどの円盤形、6×3センチの長方形などがあり、動物らしい絵の他に文字のような記号のような模様が刻まれていた。これがヴィンチャ文字と云われるものですが、深さ8.5メートルほどの層から発見されています。が、実はこれに類似したもの0は、トランシルヴァニア(現ルーマニア)のオランシュティエに近いトゥルダシュでも発見されています。ヴィンチャとトゥルダシュの距離は約120キロメートルありますが、これhが同一のものと既定され、正式には「ヴィンチャ=トゥルダシュ文字」と呼ばれます。

ヴィンチャ=トゥルダシュ文字に類似したものは、ギリシャ、ブルガリア、マケドニア、旧ユーゴ圏諸国、ルーマニア、ハンガリー、モルドバ、及び南ウクライナなどでも発見されています。この事実により、古代東欧の農耕民がけっして孤立せず、遠隔の土地の様々な文化と接触を保っていたとされる。他地域の交易を示す一例として、ヴィンチャでは地中海産のウミギクガイ、ボスニアの辰砂、ハンガリーの黒曜石、トルドスの銅などが輸入されていたことが明らかになっています。この頃、恐らくヴィンチャが先進地域だったのではないですかね?

 

ヴィンチャ=トゥルダシュ文字が、現在想定されている年代から用いられたものだとすると、メソポタミアのウルク古拙文字(シュメール絵文字)よりも1000年程も古い文字ということになります。日本では今だに「世界4大文明」という呼び方が生きてますが、世界は既に「世界5大文明」が当たり前で、中でも古代ヨーロッパは、旧石器時代も含めてこれまでの日本の教育の常識を覆す歴史の長さを秘めている。と、東欧好きの此方は勝手にそのように思っています。

 

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古代ヨーロッパの文化怪説(3)~古ブルガリア~

我が国ではヨーグルトで良く知られ、世界的には「バラの国」として知られる、歴史と伝統ある東欧の国ブルガリアには、広範に渡って先史時代の遺丘(集落)が多数発見されている。遺丘とは、集落が層状に発達した丘の事で、世界的な考古学上の鍵となるかもしれないものがまだ幾つも隠れている可能性も云われています。トラキア王国発祥の地の一つとされるプロヴディフスタラ・ザゴラも6千年以上前から都市国家を成した古い歴史を有することで有名ですが、世界的に有名なのがヴァルナ

ヴァルナ州には、1900年以前は淡水湖だったヴァルナ湖がありますが、その湖畔に近接するカルスト地形の泉や洞窟からは30を超える先史時代の集落が発見されています。更に、旧石器時代中期のものと考えられる10万年以上前の最初期の遺品も出土しています。そして銅器時代のものとされるネクロポリス(=共同墓地)を指してヴァルナ・ネクロポリスと称される墳丘墓も発見されます。因みにヴァルナという地名がいつから用いられたか、その由来は?等々を此方は知りませんが、放射性炭素年代測定で紀元前5000年代年半ばに遡る頃から栄えたとされる「ヴァルナ文化」のエポニムとなります。

 

 

と言うわけで、ヴァルナこそが東欧最古の文化集落地帯かと考えられていたのですが、スリヴェン州ノヴァ・ザゴラ市から約10キロのカラノヴォ村の北西で、ヨーロッパ最古とされる農耕文化遺丘が発見される。

実面積24,000平方メートル級(※当時を推定するとその広まりは4ヘクタールに及ぶとされる)、マウンド(=人口の小山)の高さも12メートル以上のこの遺丘は、カラノヴォ遺丘と名付けられた。20世紀になってようやく歴史の表舞台に顔を出したカラノヴォの考古学に基づく発掘調査は1936年頃から始まります。しかし世界大戦の拡大や共産主義支配により調査は遅々として進まなかった。ようやく1984年から海外研究者も参加する本格調査が展開される。現在も、オーストリアのザルツブルグ大学との共同調査が継続中です。カラノヴォ遺丘の規模と文化層年代の調査が進むにつれ、古ヨーロッパに於けるバルカンの農耕民達の生活がより鮮明となった。

古代バルカンの農民たちは、農耕に適した土地にほぼ2キロメートル間隔で集落を構えて暮らし、同じところに家を作り替えて長い間生活したと云われます。この事は、早くから「土地」を意識した人たちであった事の証であり、より良い「土地」を求める人間の習性が培われた証ともなる。そして多くの古代人が「良い土地だ」という思いを共有出来たのがカラノヴォだった。

因みにカラノヴォ遺丘は、サルネナ・ゴラと呼ばれるスレドナ・ゴラ山地最東部の最後の支脈に位置しています。言うなれば交通の要所?他文化との交流がし易かった?

カラノヴォ遺丘の全体像は上述した通りの規模ですが、発掘~実調査済の範囲はまだ一部に過ぎませんが(約1700平方メートル)、考古学的財産が多数確認された。高さ12.4メートルの文化層の調査を通じては、先史時代からこの集落で繰り返し起きた"形成と放棄"の営みの跡が何層にも亘り発見されます。そのプロファイル(断面図)が層序学的に研究されることで各文化層の年代が確定されますが、現在までに成立しているカラノヴォの編年体系に因ると・・・

カラノヴォには新石器時代から青銅器時代までの文化層が確認される。(因みに、出土した遺物はソフィア市やノヴァ・ザゴラ市の博物館に展示されているそうです。)確実とされる範囲では、遺丘には約3000年間に亘り人々が生活していたとされる。

カラノヴォ遺丘では、何らかの記号を示していると考えられる円形の印が発見されています。一部の研究者は、これは文字が成立する過程の第一段階を示す遺物と捉えています。円形印は、直径が6センチ、幅は2センチ、刻まれた記号は古代ヨーロッパ文字とも推測されています。何らかの記号の「何らか」とは、威信を示す為や特別な功績を称える為に与えたり、宗教儀式に用いられたりしたものではないかという事です。

 

農耕文化期よりもずっと新しい遺跡がカラノヴォ村から北西へ1.3キロの場所にあります。これは要塞化された集落で、バジリカ式教会堂、ダルガ、イストチナ、ビルニコヴァなどの計16の墳丘墓群からなるネクロポリスなどが所在しています。これらの遺跡の発掘調査は1976年から開始され1998年まで、途中途中に休止期間を挟みながら続きました。時を置いて2008年にはネクロポリス(=共同墓地)の一つである東部墳丘墓が考古学チームにより調査される。この墳丘墓の直径は63メートル~77メートルの楕円形。北から南へと長軸が設定されています。墳丘墓の高さは北側が11メートルで、南側は14メートル。2009年の調査では、長さ3メートル、幅4メートルの石室が発見されます。石室からは、エロス神が描かれた銀製の杯2個、ガラス製の容器、戦闘服、硬貨、銀製のフィブラや金の指輪など、豊富な埋葬品が発見されますが、その他に、四車輪の戦車や2頭の馬と犬も発見されています。墳丘墓に埋葬された主は裕福なトラキア人貴族と推測され、紀元1世紀頃の埋葬と考えられています。

トラキアや古代ブルガリア帝国は相当な強国だったのですが、古代ヨーロッパの文化先進地であったこの地域に、そのような国家が誕生したのは何ら不思議なことではない。寧ろ、ギリシャの都市国家群やローマに後れを取ったことの方が不思議な気もする。けれども、古代の先進文化同士(現在のブルガリアを含むバルカン地域圏vs現在のトルコ・アナトリアやその先のメソポタミア地域)が最先端を潰し合った隙の漁夫の利を得たのが古代ギリシャやペルシャやローマなどであったとするなら頷ける。

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