歴史の謎に誘われて

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狂王ルイ15世に見初められた女性達(17)~リシュリーの仕掛け~

生前のポンパドゥール侯爵夫人は、二人の有能な政治家を手駒としていた。

一人は、 フランソワ=ジョアシャン・ド・ピエール・ド・ベルニ(通称ベルニ枢機卿)。もう一人は、スタンビル侯爵エティエンヌ=フランソワ・ド・ショワズール(通称ショワズール公爵)。

 

ベルニは、枢機卿職となりローマ教皇庁にフランス大使として駐在する以前は、フランス王政政府の"やり手の"外務大臣として知られていた。しかし、7年戦争における外交は、ベルニをもってしても極めて難しい作業だった。ポンパドゥール侯爵夫人が差配するフランスは、それまでの方針を大転換してハプスブルク家と握手。更に帝政ロシアとも握手する「三枚のペチコート作戦」を取ったのですが、前方のプロイセン、後方の大英帝国やポルトガルとの神経戦に対して気をすり減らす日々を送る。そして遂に音を上げて、(出世争いの)ライバルであるショワズール公爵に対して、自らの意思で外務大臣職を譲ることになった。

ベルニは、フランスは従来通りにプロイセンと手を組み直すか、若しくは戦線離脱するなどの和平の道を探っていたが、その役をショワズールに託したつもりだった。が、大英帝国嫌いのショワズールには和平の考えは毛頭なかった。ベルニの口出しを遠ざける為にベルニを枢機卿とする事に成功すると、さっさとローマへ追いやった。

ポンパドゥール侯爵夫人も戦争の勝利以外を欲していなかったし、プロイセンは敗北寸前に追い込まれていたという事実があった。プロイセンが敗北した時にフランスが交渉の席にいなければ、戦勝の利を大きく得るのはハプスブルク家(オーストリア)とロシア。そうなると後々に悪い影響を及ぼしかねない、と考えたショワズールは、ベルニとは正反対に戦争へまい進していく。

 

7年戦争の主戦場は東欧だったが、北米大陸やカリブ諸島、フィリピン、アフリカ大陸など、英仏が激しく植民地活動を争っていた地域でも起こっていた。特に、(現在の)アメリカやカナダの領有を巡り大英帝国とフランスは激しく争った北米での戦争が7年戦争の流れを大きく変える。

それ以前に、成功とは言えないまでも英国海軍がフランスへ上陸作戦を敢行したが、それが原因で、フランスは海岸線の防衛に兵力が必要となりプロイセンとの戦争だけに集中することが出来なくなった。もしもフランス軍が大きな戦力でプロイセン軍へ攻め込んでいたら恐らくプロイセンは降伏していた。大王フリードリヒ2世も自決を覚悟していた程にプロイセンは追い詰められていたのだから。しかし、フランス軍が戦力を割かれたことでプロイセンは息を吹き返す。そして・・・

北米大陸の戦いで、圧倒的な勝利を見込まれていた筈のフランスが大英帝国に敗れた。

南米大陸の戦いでも、フランス側のスペインが、大英帝国側のポルトガルに敗北する。

西アフリカのセネガルでもフランスは大敗北を喫して、これが原因でフランス本国の経済は大打撃を受ける羽目になった。

等々、フランスの戦争は悪い方向へ悪い方向へと向かい、遂に、プロイセンが大逆転してオーストリアは敗北。

7年戦争の和睦交渉は当然のようにプロイセンや大英帝国側に有利に進められる。

(※7年戦争はいつか別途に詳しく書きます)

 

ショワズール公爵の思惑は外れ、結果的にはベルニの方が正しかったことになるが、ショワズールはポンパドゥール侯爵夫人亡き後もフランスの政治の中枢に居座った。ショワズールとリシュリー元帥(=第3代リシュリュー公爵ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ)の仲は悪かった。リシュリー元帥は、ポンパドゥール侯爵夫人とは反りが合わなかったが、デュ・バリー夫人とはウマが合った。もしかすると、デュ・バリー夫人を宮廷へ引き入れたのはリシュリー元帥であったかもしれない。と言うより、リシュリー元帥が仕掛けたことで間違いないという説もあるようです。
リシュリー元帥は女に目がなく、それが原因で投獄された経験も持っています。無類の女好きですが、反面、女性を政治の武器に用いるなども平気でやった人。デュ・バリー夫人の出自など気にせずに、自分の出世道具に利用した?
ショワズール公爵は出の悪いデュ・バリー夫人を疎い追い出そうとするが、それは、リシュリー元帥に対する敵視の表われであったとも云われる。

ショワズール公爵は、同じようにデュ・バリー夫人を嫌うルイ15世の娘達と手を組みます。更に、マリー・アントワネットを味方につけようとする。味方と言っても、デュ・バリー夫人に対して嫌がらせ(意地悪)をする役目ですが。

 

※(18)へ続けます

狂王ルイ15世に見初められた女性達(16)~ヤンセン主義の影~

ポンパドゥール侯爵夫人が世を去った1764年、王太子ルイ・フェルディナンは一瞬だが政治の表舞台に立った。

少年期より敬虔なカトリック教徒だったフェルディナンは、最初の妻マリー=テレーズ・ラファエルの父で当時のスペイン王フェリペ5世から、10歳の時に金羊毛騎士団に叙された経験を持っている。それも縁となってフェリペ国王の娘と1745年に結婚したのだが、マリー=テレーズの病死により、結婚生活は僅か1年で終わる。1747年にポーランド王アウグスト3世の娘マリー=ジョゼフ・ド・サクスと再婚。5男3女を授かるなど夫婦生活も円満だった。

敬虔なカトリック信者であった上に、父ルイ15世とは正反対の生真面目で厳格な性格に育った王太子は、宮廷関係者や軍人、隣国などからも期待されていたようです。

 

ルイ15世は政治には無頓着だったが、父ルイ14世時代から続いていたローマ教皇との敵対関係を継続していた。それは恐らく、宗教的見地から行動を律せられることを嫌ってのこと。つまり、女性達との愉しみを奪われることを嫌った。しかし、国王の行動を律するのはカトリックのみならず、ヤンセン主義の側にいた者達からも異口同音の糾弾がなされていた。

フランス王室はカトリック教徒であり、ローマ教皇とは「権力」の争いをしていただけであり、イエズス会の行動を支持する立場だった。が、ルイ15世は政治嫌い。枢機卿や公妾に政治を任せっきりであった故に、フランス国内に広くヤンセン主義の台頭を許してしまう。そして反イエズス会の様相を呈すようになったフランス市民社会との衝突を避ける為、フランス王政は1764年11月に全イエズス会員を国外追放に処す。この動きに対してスペインなども追従する動きを見せ始め(実際に、スペインも1767年にイエズス会を追放した)、ローマ教会を慌てさせる。

ローマ教皇クレメンス13世は、カトリックの立場としてはイエズス会の活動を保護したいのだが、各国の王室と対決姿勢を強めることは望んでいなかった。兎も角、影響力の大きいフランスのイエズス会に対する政策を改めさせようとして、王太子ルイ・フェルディナンに協力要請を行った。王太子は、父王の意向に逆らうことになったがカトリック及びイエズス会の保護政策を打ち出し、フランスの宗教政策は混乱する。

 

そういう中で、ハプスブルク家との縁談話が持ち上がったのですが、ハプスブルク家はカトリックを保護する立場の家柄。ルター派を利用したオスマン帝国やボヘミア、プロイセンとは宗教面でも激しく争っていた。ルイ・フェルディナンもカトリックを支持する側にあったので、息子(将来のルイ16世)の嫁をハプスブルク家から迎えるというのも悪くなかったと思うのだが、王太子妃の実家(ザクセン選帝侯家及びポーランド王家)とハプスブルク家の軋轢もあって縁談に反対する。それを押し進めていたポンパドゥール侯爵夫人が急死。更に、翌年にはルイ・フェルディナンが急死、そして王太子妃も後を追うように亡くなった。彼ら彼女らは"始末された"ことはほぼ間違いない。宗教が絡んでいるのか、婚姻絡みなのか、兎に角、「政治」が犯人であったこと。

 

父の愛人も、兄夫婦も、政治の中心にいた人たちが相次いで消えたことで、マリー・アデライードに政治を司る機会が訪れる。ほんの1年か、それとも数年間か、それはよく分からないけど、ルイ15世の娘達によりフランスは取り仕切られた。というわけで、マリー・アントワネットと甥(兄の子)の結婚を仕切ったのもマリー・アデライードということになる。オーストリアから嫁が入ることを反対していた母マリー・レグザンスカは1768年に亡くなった。マリー・アデライードや妹達は、この結婚に関しては母や兄の意思に反して父の意向を優先した。マリー・アデライードにとってはどうでも良い結婚だったでしょうから、多分、ルイ15世との間に"取引"のようなことがあったのでしょう。ルイ15世にとっても、ハプスブルク家から孫の嫁を迎えることなどどうでも良かったことですが、取り敢えず、愛したポンパドゥール侯爵夫人の意思を尊重して、何より、美の帝国からやって来る若い嫁に興味があった?

そして、ルイ15世自身はデュ・バリー夫人を公妾とした。

 

ルイ15世とデュ・バリー夫人vsルイ15世の娘達というドロドロした関係の中に、天真爛漫で政治など何も知らないマリー・アントワネットも巻き込まれていく。

 

※(17)へ続けます

狂王ルイ15世に見初められた女性達(15)~ロマネコンティ誕生の背景~

未婚の女性に対しては「マドモアゼル」、既婚の女性に対しては「マダム」と呼ぶのがフランス流だと思うのですが、国王の娘=王女ともなると未婚や既婚に関わらず、尊称として「マダム」と呼ばれていたらしい。

ルイ15世の4女マリー・アデライード・ド・フランス(通称マリー・アデライード:1732年3月23日生)は、三女のマリー・ルイーズが夭逝すると「第三マダム」とか「マダム・アデライード」と呼ばれた。

前回触れましたように、フルーリー枢機卿の緊縮財政策の煽りを受けて、ルイ15世の娘達は修道院へ入れられることになった(1737年~)。が、当時5歳の利かん気の強いお転婆娘のマリー・アデライードは、強力な抵抗を示して母レグザンスカに懇願。遂にルイ15世も折れて、修道院行きは回避される(彼女より下の妹たちは全員が修道院へ入れられた)。 

姉たちや妹たちと同様に、若い頃のマリー・アデライードは評判の美女で、それは父ルイ15世の自慢でもあったのですが、生まれついての気の強さが災いして、次第に「疎ましい娘」と見られるようになっていく。父と娘が不仲となった最大の原因が、ルイ15世の個人的な友人でもあるコンティ公ルイ・フランソワ1世・ド・ブルボンの嫡男で2歳年下のルイ・フランソワ2世との縁談を頑なに拒否したこと。

表面上の理由は、年下男性を嫌っての事とか、コンティ家が実家であるブルボン家の支流(ブルボン=コンティ家)で格下と馬鹿にしての事とか言われている。が、兄嫁で殆ど年齢の変わらないマリー=ジョゼフ・カロリーヌ・ド・サクスの祖国ポーランドに対する複雑な思いが絡んでの拒否反応であったかもしれない。

 

この時代のポーランドは、フランスや神聖ローマ帝国構成諸国家との関係が複雑怪異。特にフランスとはギクシャクしていた。

ルイ15世の妻レグザンスカの父は、前ポーランド王スタニスワフ1世レシチニスキ

ルイ15世の嫡男(=王太子)ルイ・フェルディナンの妻マリー=ジョゼフ・カロリーヌ・ド・サクスの父は、当時のポーランド王アウグスト3世

スタニスワフ1世は、ザクセン選帝侯だったアウグスト3世によってポーランドの王権を奪われた立場で、嫁(王太子妃)と姑(王妃)それぞれの父が敵同士という関係。

 

マリー・アデライードは3歳年上の兄フェルディナンを好きだったが、兄嫁となったのが大好きな母の敵の娘。年齢がほぼ一緒(4ヶ月ほどカロリーヌが早く生まれている)の義姉をどうしても好きになれずにいた。そういう中で縁談が持ち込まれるのですが、この時期、ポーランド王アウグスト3世が体調を大きく崩して生命の危機に晒されていた。重篤に陥ったアウグスト3世には跡継ぎがなかったので、ポーランドの重臣たちは王女の嫁ぎ先であるフランスに相談(良き王候補はいないか?と)。白羽の矢が立ったのがコンティ公ルイ・フランソワ1世。ルイ15世の強い推薦もあり、立候補さえすればほぼ間違いなくポーランド王になれる筈だった。

コンティ公の息子ではなく、相手が、母の祖国ポーランドの王の息子ということになれば自分はポーランド王妃になれる。このような縁談であればマリー・アデライードも、王妃レグザンスカも何も文句はないところだが、王太子妃の父(アウグスト3世)は崩御したわけではない。

 

この頃、フランス軍の中でルイ1世フランソワと激しく出世を競っていたのがエルマン・モーリス・ド・サクス。「サクス」はフランス語で、ドイツ語なら「ザクセン」。ザクセン選帝侯でポーランド王アウグスト2世の庶子だったのがエルマン・モーリス。アウグスト2世の嫡男でポーランド王となったアウグスト3世の異母弟にあたる。つまり、王太子妃カロリーヌの叔父。若い頃からフランス軍に身を投じたエルマン・モーリスは兎に角優秀な軍人だった。そして1747年、遂にオーストリア継承戦争中のフォントノワの戦功によってエルマン・モーリスはフランスの大元帥になった。出世争いで負けたルイ1世フランソワは軍を去った。しかし、軍を去ったのではなく、ポーランド王への立候補という大事な要件を優先して退役したのだとも云われている。

ところが、ルイ15世が推すルイ1世フランソワに対して、エルマン・モーリス以下フランスの王権政府の要人たちは、王太子妃の出身家ザクセン選帝侯家から候補者を擁立するべきだと主張。ポーランド側は、王と政府が全く違う回答をするフランスに混乱。ルイ1世フランソワの立候補は待たされる羽目に。そうこうする間にアウグスト3世の容態が奇跡的に回復。何事もなかったかのように政治へ戻る。というわけで、ルイ1世フランソワのポーランド王への立候補話は露と消える。これで、自分の夫候補はコンティ公の息子のままとなったので、マリー・アデライードはこの縁談に完全に興味を失くした。

 

その他にも色々と縁談話が舞い込みますが、彼女が望むような相手ではなく、次第に婚期が遠退いた。焦りもしないアデライードは、修道院から戻った妹たちと遊び惚ける日々となり、ルイ15世との父娘関係は完全に悪化。ルイ15世の愛妾ポンパドゥール侯爵夫人に対してもアデライード達姉妹は敵意剥き出しになる。けれど、賢いポンパドゥール侯爵夫人はアデライードを逆に手懐けた。

ポンパドゥール侯爵夫人は、ルイ1世フランソワとは反りが合わなかった。二人の関係がよくなかったので、エルマン・モーリスが大元帥になれたのだとも云われる。ポンパドゥール侯爵夫人がどうしても手に入れたかった極上のブドウ畑をルイ1世フランソワが全て手に入れた。そして其処は「ロマネ・コンティ」の原産農場となる。更に、ルイ15世の私的諜報機関セクレ・ド・ロワの長官だったルイ1世フランソワの諜報活動によって、ポンパドゥール侯爵夫人の動きは尽く制約されたとも。

因みに、ジャン=ジャック・ルソーのパトロンだったことでも知られるルイ1世フランソワによって、フランス文学は飛躍的発展を見せたとも云われる。

 

マリー・アデライードは結局結婚せず。そして彼女の妹たちも誰も結婚しなかった。結婚しなかっただけならまだしも、王女達の存在によって、デュ・バリー夫人は楽しくない日々へと追い詰められて行くし、マリー・アントワネットの立場を悪くしたのもマリー・アデライードらの存在だった。

 

※(16)へ続けます

狂王ルイ15世に見初められた女性達(14)~末娘の抵抗~

マザリネット達やポンパドゥール侯爵夫人は国王の公妾に相応しい格は備えていた。公妾ではなく、結婚相手だったとしても、多くの者が納得出来る女性達だった。しかし、デュ・バリー夫人を名乗ることになったジャンヌ・ベキューはそうではなかった。何処の馬の骨か分からない女性がいきなり玉の輿に乗ったようなもので、一年間の契約料金が当時の金額で120万フランと言うとんでもない破格値であった。一年で終えたにしても一生食うに十分な金額だった。それだけでも宮廷関係者を驚愕させたのに、ルイ15世は更に驚くべき贈り物を行った。ポンパドゥール侯爵夫人がルイ15世に懇願してヴェルサイユ宮殿内の庭園を再整備して建てられた離宮・小トリアノン宮殿がデュ・バリー夫人の住まいとして贈られたのだ。それ(自分専用の離宮)をどうしても欲しかったポンパドゥール侯爵夫人は、小トリアノンが完成する前に急死したので、其処にはまだ誰も住んだことがなかったのですが、デュ・バリー夫人のものとなった。

デュ・バリー夫人がルイ15世の「女」となることまでは仕方ないと半ば諦めた感じで受け入れていた宮中の者達が、小トリアノン宮殿にデュ・バリー夫人が住まうことに決まった途端に彼女に対して攻撃的になったと云われる。その象徴的な事件が1770年4月11日に起きます。

 

ルイ15世と正室レグザンスカ王妃との間には早死にした子も含めて二男八女が誕生していますが、双子の長女でスペイン王子(パルマ公フィリッポ1世)と結婚したマリー・ルイーズ・エリザベート・ド・フランス以外の女性達は、誰も結婚しなかった。とびきりの美人と謳われたマリー・ルイーズの双子の妹アンリエット・アンヌ・ド・フランスを筆頭に、姉妹の全てがとても美しかったのに誰も結婚しなかった。マリー・ルイーズがあまりにも早く(12歳か13歳)で結婚したのとは対照的に、双子の妹は楽器演奏の嗜みが高じて音楽と結婚したような女性だったが、結婚に興味を示さないまま24歳という若さで天然痘に罹り逝去した。その8年後に、双子の姉マリー・ルイーズも32歳という若さで妹と同じ天然痘で亡くなる。三女は4歳で夭逝。4人目は男子で、ルイ16世=ルイ・フェルディナン。5人目も男子だが2歳で夭逝。

6人目の四女マリー・アデライード・ド・フランス、7人目の5女マリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランスは共に60年以上を生きて比較的長生きだった。8人目の6女ソフィー・フィリップ・エリザベート・ジュスティーヌ・ド・フランスも50年以上生きるかと思われたが47歳で亡くなり、フランス革命を見ずに済んだが贅沢病が原因?9人目の7女テレーズは7歳で夭逝。そして末子8女のルイーズ=マリー・ド・フランスが上述の事件の当事者です。

 

四女のアデライードは頑なに拒否し母レグザンスカも強く懇願したので少女期の修道院行きはなかったのですが、5女ヴィクトール以下の4人は修道院で少女期を過ごします。アデライードと父ルイ15世の確執は有名でこの話は書かねばならないのですが今回は末妹ルイーズ=マリーのことを書いて終わります。

1737年7月15日生まれのルイーズ=マリーは、恐らく2歳か3歳で上の姉達3人が過ごすフォントヴォロー修道院に入った(入れられた)。 

1737年は、姉妹たちにとって不運な年となった。当時の宰相フルーリー枢機卿は、財政難に陥っていたことの立て直し策として宮廷費の大幅削減を断行。娘達の全てを修道院で生活させることを国王に承服させる。(しかし、アデライードだけは頑強に拒否したが)。姉たちは渋々入った修道院だが、幼いルイーズ=マリーにとっては、姉達がそこにいるというだけで修道院に憧れた。枢機卿は、何の抵抗もなくルイーズ=マリーを追加で修道院へ入れる。

ルイーズ=マリーが修道院を出て宮廷へ戻ったのは1750年。13歳になっていた彼女は姉たちの誰にも負けない程美しく、ルイ15世は早速結婚相手を探させたが、ルイーズ=マリーは、「愛してもいない相手との結婚をさせられるくらいなら修道院へ戻りたい」と抵抗する。これはアデライードの影響とも云われるが、ルイ15世の娘達は誰もが母思いで、兎も角、父の公妾を嫌っていた。賢かったポンパドゥール侯爵夫人などはそれでもアデライードを懐柔したと云われますが、賢くはなかったデュ・バリー夫人は王女達とは反りが合わなかった。そして、小トリアノン宮殿がデュ・バリー夫人の手に入ったことで王女達との対立は決定的となった。

が、父ルイ15世は常日頃から何かと口喧しく結婚も拒否するアデライード以下を毛嫌いしていて、末娘ルイーズ=マリーだけは何とか手懐けようとしていたが、ルイーズ=マリーもデュ・バリー夫人と父の関係を許せずにいた。そして、1770年4月11日の早朝、姉達にも何も告げずに彼女は姿を消す。誰もが驚き探し回ると、セーヌ=サン=ドニのカルメン会女子修道院から報せが入り、王女が修道女となる事を強く望んでいるとの事だった。それから約5か月間説得されたが、ルイーズ=マリーの決心は固く、1771年9月12日、彼女は正式に修道女となり「サントーギュスタンのテレーズ」という修道名を名乗ることに。そして1787年12月23日に病で召される50歳まで修道女であり続けた。

彼女は王室とはほぼ関係ない生活を送った。にも関わらず、愚かな民たちはフランス革命中にルイーズ=マリーが眠る墓まで掘り返され冒涜された。

1873年になってローマ教皇ピウス9世はルイーズ=マリーをカトリック教会の尊者として列して彼女の名誉を回復するが、やっぱり(革命)当時のフランス国民の大部はただ高揚して狂っていただけだと思われる。

 

※( 15)へ続けます

狂王ルイ15世に見初められた女性達(13)~永遠の処女ジャンヌ~

政治的な才能はほぼ持ち合わせていないし、知性に於いても宮中の多くの女性に劣ったが、ルイ15世を満足させることにかけては若かりし頃の王妃レグザンスカや生前のポンパドゥール侯爵夫人に勝るとも劣らない。デュ・バリー夫人の登場により、ルイ15世は「夜」の愉しみを取り戻した。

相変わらず政治には大きな興味を示さないルイ15世ですが、少なくとも、無気力ではなくなった。「鹿の苑」に籠る必要もなく、夜な夜な公妾との時間を満喫していた。当時の"秘密新聞"には、『王専用の娼婦様(=デュ・バリー夫人)は実に艶やかで、一目見るなり胸元をぐっと掴まれる』と表現されたとも云われ、女慣れした当時の貴族男達も誰もがうっとりさせられる程の官能的な女性だった。多くの男たちが是非一度お相手をと願う女を独り占め出来ている喜びを国王は感じていたでしょう。 

 

マリ=ジャンヌ・ベキュー(=デュ・バリー夫人)よりも300年以上前に一世を風靡した"ジャンヌ"と言えば1412年頃の生まれと云われるジャンヌ・ダルク。二人のジャンヌを比較して、18世紀の風刺作家が作った詩があるが・・・

===

フランスよ、それがお前の運命か

いつも女の言うがまま

処女の(ジャンヌ・ダルクの)おかげで救われたのに

売女の(ジャンヌ・ベキューの)おかげで滅びそう

===

 

デュ・バリー子爵の回顧録では、ジャンヌ・ベキューは子爵の命じるままに貴族相手に体を与えていたが、子爵の命じた以外の相手にも売春を行っていた。それは借金返済の為であったとか。ジャンヌ・ベキューの借金がどれくらいあって、どうして借金を背負っていたのかは分からないが、ジャンヌ・ベキューを多くの貴族が抱いていたし、その話は作家達には有名だった。そして、誰もがジャンヌ・ベキューの性に魅了された。しかし、国王の公妾と上り詰めデュ・バリー夫人と呼ばれるようになった彼女には流石に手を出せない。まだデュ・バリー夫人を知らない男達が歯痒さからか彼女の悪い噂を撒き散らしたが、努めて明るいデュ・バリー夫人はめげなかった。国王も、ジャンヌの素性をある程度分かっていたので彼女の"誇張された"噂話を聞いても気にも留めなった。ルイ15世は別称"最愛王"とも云われ、女性には優しかった。まして、自分専用の公妾を自分の方から嫌いになることはなかった。デュ・バリー夫人は、それまで数多くの男を知っていたが、ルイ15世の優しさに触れてそれまでの公妾達の誰よりも王のことを真剣に愛したとも云われます。

 

ジャンヌ・ベキューは、少女期にパリに移り住み、母親と同じお針子さんだった。しかし、ただのお針子さんではなく極めて美しいお針子さんだった。お針子さんにしておくには勿体ない程の美しい少女だったが、あまり品の良くない母親を持ち、実の父親にも愛されない寂しい少女期を過ごし(義父はそれなりに優しかったらしい)、愛人でもいいから誰か素敵な殿方の傍で愛され続けることを望んでいた。そのようなジャンヌ・ベキューは、ある時、女衒に声をかけられた。その時はまだ処女だったジャンヌですが、客を取る女となる。しかし、ジャンヌは誰に対しても「私は処女」と言わされた。それが彼女の"ウリ"であり、嘘でも、彼女はそのように思われる雰囲気を持っていたので、男たちはそれなりに"処女売春婦"を堪能した。そういう噂を聞きつけたデュ・バリー子爵も彼女を処女として囲い貴族たちの相手をさせていたのかもしれない。ジャンヌは処女性を失っていない(演技が出来る)女性だったのでルイ15世に気に入られたのかもしれない。

ルイ15世から提示された公妾条件は、城館一つ、貴金属、(金になる)巨匠の名画、多額の契約金。デュ・バリー夫人には断る理由は何もなかった。貴族女になったばかりの彼女には、宮廷の女達や男達の怖さなども何も知らなかったし、ただただ、幸せを夢見て宮中へやって来た。そして、唯一誰にも負けない武器=彼女自身の裸体を以てルイ15世に尽くした。頂いた贈り物以上にルイ15世に愛されることが嬉しくてルイ15世の要求の全てを聞き入れた。

 

ジャンヌ・ダルクは戦場を駆けた永遠の処女だったかもしれないが、ジャンヌ・ベキューはベッドの上で永遠に処女を演じ切れる女性だった?

 

※(14)へ続けます

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