歴史の謎に誘われて

史話怪説BLOG

もっと語られるべき史話と騙られ過ぎている史話を怪説するBLOG

デニソワ

ホモ・サピエンス(・サピエンス)に最も近い人類と言えば?と問われたら、多くの人たちが「ネアンデルタール人」という名前を即答していた時代に生まれ育った此方は、「デニソワ人」という名を聞いても正直ピンと来ない。でも、2008年にロシア・アルタイ山脈のデニソワ洞窟から"発見された"この人たちは、2010年にはその存在を世界的に認められ「デニソワ人」と名付けられた。

「この人たち」とは書いたけど、デニソワ洞窟から見つかったのは、5~7歳と推定された少女の骨の一部(小指の骨と見られている)であり、「この人たち」と書けるほど大量の人骨が出土しているのかどうかは分からない。

兎も角、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所など国際研究グループにより細胞核DNAを解析された結果「デニソワ人」と名付けられた少女(の指)について、2010年春と年末に相次ぎネイチャー誌で論文発表された。

この論文によると、デニソワ人は、ネアンデルタール人と近縁なグループの人類であるが、80万4千年前に、現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先からネアンデルタール人の祖先が分岐した時デニソワ人の祖先も分岐した。そして、64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類がデニソワ人であろうと推定されている。 

 

ところで、ネアンデルタール人の化石は、イラク北部クルディスタン地域のシャニダール遺跡からも発見されています(1957年から1961年にかけての発掘調査)。それは、3万5千年前から6万5千年前にかけての人骨と解明されていて、10体の人骨の内4体がほぼ完全な骨格として発見され大きな衝撃を与えたと云われています。

そのシャニダール遺跡から約4千キロ離れた場所にあるのがデニソワです。人類の長い時間をかけての旅では、4千キロは十分に行ける距離です。

 

現生人類とネアンデルタール人は、人種として別種です。ネアンデルタールを絶滅させたのは現生人類であるという考え方も多くあります。一方では、一部のネアンデルタールと現生人類が交雑していることも確実です(現生人類の数パーセントには、ネアンデルタールDNAが引き継がれている)。そして、現在のミクロネシア人達やシナの漢人やチベット人には、デニソワ人と交雑した現生人類の血が引き継がれている可能性を指摘されています。

ということは・・・

シナから渡来した人たちが帰化した日本にも、デニソワ人のDNAが引き継がれている可能性もあるのではないか?

そういうことを考えると楽しくて仕方がないので、雑記的に書いてみました。

ヒッタイト(9)~古王国初期~

ハットゥシャを征服したとされるアニッタ王の軍隊は、前回書きましたように現代からは"大軍勢"には見えない。しかし、その当時の1400名と戦車(=戦闘用馬車=チャリオット)40両は大軍勢であったのかもしれない。人ひとり(兵1名)の命の重さは、現代のように数十億人が暮らす時代とは明らかに違うのですから。以前、紀元前24世紀のラガシュとウンマの戦争時の徴兵の数を書きましたが、167名です(参照記事=≫ラガシュとウンマ、そしてウルク第三王朝の怪説)。紀元前15~6世紀の1400名の軍隊をけっして小人数とは言えないでしょう。人数の問題ではなく、どれだけその国にとって貴重な命が危ぶまれるかで戦争の幕引きは行われる。それは現代も同様の筈。ハットゥシャを攻略した時のアニッタ文書には、「夜中に都市を攻略し、そこに草一本生えないようにした。我が後の王でここに住むものあれば、天なる天候神の怒りに触れん」と記されています。要するに、1400名程の軍勢に押し寄せられたら、都市一つひとたまりもなく破壊される時代だったわけで、その数の軍隊を動かせば、敵に恐怖を与えることが十分に可能だったことが事実でしょう。ヤクザが5人も徒党を組んで夜の街を闊歩していれば、大勢の一般人は道を開ける以外にない。そんなもんでしょう。

一説では、最初に大王を名乗ったとも云われるアニッタは、遠征時には鉄製の笏と玉座を伴ったという。製鉄技術がまだ盛んではなかった当時、鉄は貴金属であり、金よりも高価だったという学者は少なくない。(※因みに我が国では、室町時代の少なくとも半ば頃までは、金よりも銀の方が高価だったことも明らかになっている。)しかし、アニッタ以降暫く、約2世紀の間、ヒッタイト人の動向を示す史料は見つかっていない。その間のヒッタイトは再びハットゥシャを追われてクッシャラへ戻ったとも云われるが何も分かっていない想像だけのこと。

 

ヒッタイトが、再びハットゥシャを根拠地としたのはラバルナを称した王が初めて登場する紀元前1600年前後。そこからの時代を、ヒッタイト古王国時代と呼ばれることもあります。

前回も書きましたが、古王国から続くヒッタイト王国~帝国の歴史では、多くの王が「ラバルナ」を称します。ラバルナは大王を意味する言葉であり、全ての王がラバルナであると自認していたわけでもなく、ラバルナを名乗らない王もあったようです。そして、最初にラバルナを名乗り古王国時代の幕を開けた王はラバルナ1世と云われたり、別の説ではハットゥシリ1世と同一視されたりもしています。

取り敢えず、ラバルナ1世当時のヒッタイトの首都はクッシャラだった。そこを拠点にフプシナ、トゥワヌワ、ネナッサ、ランダ、ザッララ、プルシュアンダ、ルスナを征服し、それぞれの土地に7人の息子達を配して統治したとされる。そして、ハットゥシャを取り戻して遷都した。クッシャラとハットゥシャ以外の領地名は息子たちの名前だとも云われています。クッシャラの位置も解き明かされていなければ、七つの領地の場所も一つも特定されていない。が、ラバルナ文書の上ではそういうことになっている。肯定しようも否定しようもない。

「国土は小さかった・・・」(ラバルナ文書の常套句)が、ラバルナによって拡張された。故に、ラバルナは大王の尊称となった。そして、この王の妃はタワナアンナという名だったらしい。以降、「タワナアンナ」は王妃の尊称となった。全ての王妃はタワナアンナであったが、先代のタワナアンナ存命中はその名は使えないという規則が成立していた。つまり、新たなラバルナが誕生しても、先代の妃が存命ならば、ラバルナの妃であってもタワナアンナではない実名で刻まれた。それ故に、殆ど全ての歴代王妃の名が明らかになっている。面白い国です。

 

ハットゥシリ1世=ラバルナ1世の説の人は何も言うわけはないのですが、ハットゥシリ1世とラバルナ1世は別人とする人たちの説の中には、ハットゥシリ1世はラバルナ1世の息子ではなく、タワナアンナの従弟であったという説があるらしい。そして、7人も息子がいたのに王妃の同族が王位を継承したことは何かある・・・と、謎解きの材料にもされているらしいのですが、絶対に分からない話だと思います。小説の題材としては面白そうですが、何処からそのような史料が出て来たのか、それこそ謎です。

ハットゥシリ1世の名は、それまでの地域大国の一つヤムハドとの戦争を始めたヒッタイト王として知られています。ヤムハドは、此方に言わせればフルリ人国家の一つですが、アムール人とフルリ人が同居していた国とも、或いは、アムール人の国家だったと主張する学者も中にはいるらしい。まだ確実な答えが出ていないヤムハドの実体ですが、兎も角、ヤムハドが国家として存在していたことは間違いない。それは現在、大英博物館に所蔵されているイドリミの石碑からも明らかです(参照記事=≫フルリ(5)~ミタンニ初期~)。

 

※(10)へ続けます

ヒッタイト(8)~ヒッタイト建国期~

歴史を研究することを本職としている全ての学者(歴史学者、人類学者、考古学者、民俗学者、宗教学者、哲学者、物理学者、生物学者・・・) は、人類が、身体の諸機能を変化させることなく様々な環境への適応を達成出来ることを知っている。環境が変われば、それに適応しようと人工的な何かをいくらでも生み出し、何とか生き延びようとして実際にそうやって来ている。何もなかった砂漠、原野、どこでも都市に変えてしまったのが人類だ。が、人工的に適応しようとする以前に、それまでとは決別する思考を行う。思考する範囲は境界線など持たず、誰もが、神をも畏れぬ考えに至ることが出来る。それまでの信仰を否定する、それまでの話し方をしなくなる、それまでの態度が変わって行く、等々、"それまで"とはまるで違う人になる。

ということを前提とするならば、何々人と何々人はそもそも何々人で同じであった。と言ってもいいけど、学者には論証なきことは言えないし、学界で認められなければ嘘吐き呼ばわりされて地位を汚すことになる。なので学者さん方は慎重だ。そしてそういう方々に学んだ経験を一切持たない此方などは慎重さの欠片もなく、好き勝手怪説する。

 

親と子という近しい関係であっても、「どうして、この子(この親)は、自分らとは違うんだろう」と、その考え方や、言葉遣いや、生き方、(将来に対する)夢の見方、等々が理解出来ない場合があると思う。社会や人間に対する学術研究が進んだ現代はそれが当たり前に受け止められることも、古代ではそうではなかった筈。親子で権力を奪い合い殺し合った国家など数えたらキリがないくらいある。それを、国家や部族は信仰の中で、神話という形を取って教え込んでいった。

絶対的な神の父が絶対的な神からその座を追われたり、絶対的な神が絶対的な妻からその座を奪われたり、そういうことは普通にあることだからと教えた。

領土と思しき国産みで「足を切られる」だの「性器を切られる」だのという、どんなに巨大で強固な領土でも"切り取られる"ことは起こり得ることだと教えた。

そういうことが困るのなら、子を、親を、妻を、娘を、隣人を・・・大切にせよ、というのが信仰における神話の捉え方だ。神話には、大人が子供に人間や社会を面白く分かり易く伝える(教える)ための知恵が凝縮している。なので、国家や部族の大小に関係なく、"出来の好い"神話は他者にも受け入れられアレンジされる。特に近隣諸国には伝わり易い。

 

フルリ人の神話は出来が良かった。多分、世界で最も早く信仰に頼り、その中で神話を書いたのはフルリ人で間違いない。何故なら、フルリ人は、同じような自然環境の中で時を過ごしたアムール人が、最初の帝国だったアッカドをも凌ぐアッシリアやバビロニアという巨大強国を持つに至ったことで肩身が狭くなったのだ。肩身が狭くなったというのは、自由自在に暮らせる領域が狭まったということで卑屈になった意味ではない。が、政治システムを大胆に変えて巨大建造物を建てることも出来るようになったアムール人は、アッシリア人やバビロニア人になったことを誇らしく謳歌した。やがて、隣人だったフルリ人に対しても横柄になっていったことは充分に考えられる。そして、フルリ人は苦しみの中で何かを悟り信仰に辿り着き神話を書いた。困った者しか神頼みは行わない。アムール人は困らないが、フルリ人は困った。シュメール人は何処へ消えたか本当に謎だが、シュメール人はアムール人に溶け込み、エラム人にも迎え入れられ、フルリ人とも混血したのだろう。やっぱり、シュメールという先行文明があったからこそアムール、エラム、フルリは発展し易かった筈だから。

 

しかし、フルリ人も、何世代か経てば、自分たちだってアッシリアやバビロニアのような統合国家を誕生させ切れる筈だ、と、それはごく自然な考えとして持った。そして、ヒッタイト帝国も建国された。ヒッタイトは、アムール人がアッシリア人やバビロニア人名乗ったように自らをヒッタイト国民=ハッティ人を名乗った。王名表も書いた。更に建国神話も書いた。やがて、アムール人達に嘗められないだけの国になっていく。

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ところで、ハッティ人とヒッタイト人は別もの。ハッティ人はアナトリアの何処かを出自として、ヒッタイト人はインド・ヨーロッパ語族系で中央アジア辺りからやって来てハッティ人を吸収した、という説もある。如何にもらしい説ですが、当BLOGは、それをまたイチイチ紹介するのも面倒くさいのでハッティ人=ヒッタイト国の創建者で推し進めます。

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アナトリア高地を源流にして黒海へ注ぎ込むトルコ語で「赤い河」を意味する総延長約1350キロメートルに及ぶクズルウルマクは、ヒッタイト語ではマラシャンタと呼ばれていた。ハッティ人が、そのマラシャンタ流域のハットゥシャ(現ポアズカレ)を中心にしてアナトリアを広く征服しヒッタイト帝国を建国したのは紀元前1600年前後とされる。その時の王はラバルナという名を冠した。「ラバルナ」という名はヒッタイト語で「大王」または「偉大な王」を意味するものであり、これ以降、全ての王は「ラバルナ」を名乗ったとも云われる。が、この王をラバルナ1世と記述する史書も少なくない。一方で、ハットゥシリ1世であると書かれた史書も多く存在する。別にそれはどうでも良いが、ヒッタイトの王名表には、建国以前にハッティ人を率いていた王の名も記されています。

ハッティ人の最も古い王は、紀元前22世紀頃の、アッシリアからはカネシュと呼ばれた現在のトルコ・カイセリ県の古代遺跡アッシュの丘を本領とした。が、アッカド帝国のナラム・シンに屈したか追われたか、以降、ハッティ人の名は歴史上から姿を消した。言い伝えでは、ハッティ人の故地とされるクッシャラで密かに時を過ごしていたと云う。紀元前18世紀、再びカネシュに舞い戻ったハッティ人の王はピトゥハナと呼ばれた。ピトゥハナの頃の領域は分かっていないが、彼の息子で次の王となったアニッタによってハットゥシャを手に入れたと云われています。が、史家によっては、ハッティ人のハットゥシャが、ヒッタイト人のアニッタに征服されたと主張している場合もあります。先を進めます。

 

アニッタ王に率いられたハッティ人(此方に言わせればフルリ人)は、ハットゥシャ他周辺の諸都市を次々に陥落させ、ヒッタイトの基礎を成します。ところで、最古のヒッタイト文書とされる『アニッタ文書』では、「1400人の兵士と40両の戦車を率い・・・」とまで解読された文章が記されている。アニッタ王が陥落させた諸都市というのは実際は村レベルで、服属させた王たちは、村長クラスだったとも云われている。それでも、アニッタ王の時代に後のヒッタイト帝国の基礎が成されたこともほぼ間違いないことです。

 

※(9)へ続けます

ヒッタイト(7)~信仰から見えるハッティ人=フルリ人~

ヒッタイトの信仰はフルリ人の信仰と類似していたが、古代史上の学術表現では、「互いの宗教は融合していった」ということに留め置かれています。学者という立場で責任を負う人々は、「そのように思います」なんてことは言えないですからね・・・

対して、無責任極まりない当BLOGは、思った通りの個人感想文を述べていて「ごめんなさい」。それでも多くの人に訪れて頂けていることに感謝して今日も駄文を書いています。

 

現在のトルコ・カッパドキア・アダナ県コマナ辺りとされる、嘗てのキズワトナ王国クメニ(クンマンニ)の神殿に祀られたテシュブ(=天候の神)は、フルリの絶対的な守護神とされ、ヒッタイトでも篤く信仰され、ヒッタイト消滅後にはウラルトゥ王国などに"降臨"した。

ということは、やっぱりフルリ人もハッティ人も現在のアルメニア人もクルド人も出は同じではないのかな?と、どうしてもそのように思えますが先を進めます。

 

フルリ人諸国やヒッタイトではテシュブと呼ばれた天候の神は、「バアル神」「アダド神」「ハダド神」などと呼ばれ、パレスチナやエジプトでも信仰された。干ばつに対する恵みの雨や、降り過ぎた雨を宥めるなど、神頼み以外にないことは昔も今も同じ。特に古代期では「神」に縋る思いが強かったでしょう。なので、万物の神よりも兎に角、お天気だけでも何とかして下さいと人々は祈りを捧げ、その偽らざる思いの証として神殿が建立されたのだと思います。

ギリシアでは、万物の神であるゼウスが最高神となりますが、ギリシアはメソポタミアほど天候云々はなく、だから余計に「何でも頼める神」が求められたのでしょう。ローマやギリシアの神殿名として知られる「パンテオン」という意味は、万物神=総ての神々ということですが、フルリ人の神殿もパンテオンと呼ばれるのですが、それは後世に名付けられたことで、フルリ人やハッティ人には万物の神の存在は無かったように思えます(一つの神に何でも頼む宗教観はなかった)。

 

テシュブ以外の主要な神は下記のようになります。

ヘバト(テシュブの妻=地母神)=ヒッタイトではアリンナと呼ばれますが、太陽神(太陽の女神)ディ とも同一視された。

シャルマ(テシュブとヘバトの息子)

アヌ(全ての神の父)=ヒッタイト神話ではクマルビ(テシュブの太古の父親)であり、クマルビは、フルリ人に従う『全ての神の父』とされる。

シャウシュカ(治療の女神)シャウシュカの神殿として最も有名な神殿はニネヴェにあった。アッシリアのイシュタル女神に相当するとされる。

シメギ(太陽神)

クシュフ(月神)

 

フルリ人の神々は、エジプトやメソポタミアの神々のように特定の主神殿を持ってはいなかったが(ニネヴェのシャウシュカ神殿など一部を除く)、ヒッタイトのヤジリカヤ神殿は、クメニ神殿を真似て建立されたテシュブ信仰の神殿とされる。

トルコ南東部シャンルウルファ(イスラム教の聖地都市)の更に南約40キロメートルにある寒村ハラン(聖書にハルランとして登場する)には、月神クシュフ信仰の神殿があった。クシュフは、アッシリア=バビロニアの月神シンと同一であり、アッシリア統治期のクシュフ神殿はシン神殿と呼ばれていたと云われる。遡ってシュメール時代にはナンナ(エンリル神の息子)と呼ばれた。ナンナもシンも「天と地のランプ」として崇敬された。

ヒッタイトには関係ない話ですが、ハルラン(ハラン)はローマ帝国にとって鬼門とされた。マルクス・リキニウス・クラッススがパルティアを相手に敗死した地。カラカラ帝がパルティア遠征中に暗殺された地。ガイウス・ウァレリウス・マクシミアヌス・ガレリウスがササン朝(ペルシア)に大惨敗を喫した地(但し、ガレリウスはその敗北を糧にして成功した皇帝の一人になった)。

 

バビロニアの冥界の神として知られるネルガルに相当する神がフルリやヒッタイトにも存在したとされるが、どの神が冥界の神か分かっていない。が、最初のネルガル神殿は紀元前3千年紀の後半にウルケシュに建造されたものと云われています。その頃のウルケシュはフルリ人の王国だった筈なので、ネルガルはフルリの神=テシュブ、或いはシメギの名が変わった形ではないかと考えられる。

 

ミタンニ王国の宗教的中心地カハトに纏わる神話は、ヒッタイト神話の「ウルリクムミの歌」に酷似する。ウルリクムミは、岩の巨人。クマルビ神話ではそのまま「ロック」と呼ばれる。天候神テシュブに神々の王の座を奪われたクマルビが、復讐の為に泉のほとりにあった長さ約32キロメートルの岩との間にもうけた子がウルリクムミ(=ロック)。さすが、神です。岩とセックスして岩に子を産ます。尤も、我が国の国産み神話も似たようなものですから、そんな事にイチイチ目くじらを立てていたら先へ進めません。成長して、とんでもない巨岩となったウルリクムミですが、結局、テシュブに敗れ去る。という話がミタンニ神話にも書かれていて、やっぱり、ハッティ人とミタンニ人は同祖=フルリ人としか思えないですね。因みに、ミタンニ神話を解読したのはギリシアの史家ヘシオドスです。そして・・・

 

ギリシア神話に、クロノスがウラヌスの性器を切断する説話は、クマルビがアヌの性器を切断する説話に由来するものと考えられています。また、ゼウスによるクロノスの打倒に関する神話は、テシュブとクマルビに関する神話に似ている。後のフリュギアの女神キュベレは女神ヘバトに酷似する。

という具合に、ギリシア神話はフルリ人=ミタンニ王国に伝わった神々の伝承をベースに描かれたものだと言える。歴史学者は証拠が無いので断定出来ないでしょうけど、ここは怪説BLOGですから、"状況証拠"だけで十分です?フルリというタイトルの最終回をサブタイトルで「ヒッタイト」と書いた続きとして今回を書いたので、此方の考え方としては、ヒッタイト王国はフルリ人の建てた国家で、しかし、フルリ人と名乗っていたかどうかさえ分からない彼らは、ハッティ人と名乗った。ただそれだけの事だと思います。

中央集権的なアッシリア、バビロニア、エジプトなどでは、信仰を政治的に取り入れて巨大な宮殿や神殿が建造されたが、早くから神々信仰が起きていたフルリ人の諸都市にはそういう巨大な建造物がない。そのことを思えば、フルリ人=ハッティ人とアムール人やエジプト人は別もの、別思考、別文化であったとも考えられます。

 

※(8)へ続けます

上杉謙信を女性説に基づき語る(18)~上杉と長尾の関係~

初めて「上杉」の姓を名乗った上杉重房の生・没年は不明。だが、この人が生きた時代は分かっている。 

後鳥羽天皇(在位=寿永2年(1183年9月8日)~建久9年(1198年2月18日))の治世時に、藤原北家・勧修寺流の藤原清房の次男として生まれたのが重房。成長した藤原重房は、後嵯峨天皇の子・宗尊親王が、皇族として最初の征夷大将軍に叙任して鎌倉幕府の第6代将軍(在位・建長4年(1252年4月)~文永3年(1266年6月))として関東へ下向した時の介添え役として共に鎌倉へ供奉した。この時の功により丹波国何鹿郡上杉症を賜った重房は、以降、(本姓は藤原)上杉重房を名乗る。

初代将軍・源頼朝から第6代宗尊親王までを記録してある『吾妻鏡』には、宗尊親王の随行者5名の中に藤原重房の名が見当たらないということで、重房の鎌倉赴任には否定的な人たちも少なくないらしいが、そんな大昔のことは此方には分からないので先へ。

兎も角、上杉重房を名乗ったこの人は、やがて公家の身を捨て武士を志し鎌倉へ。当時の鎌倉の有力御家人であった足利泰氏(足利宗家の第4代当主となる)に仕官する。

清和源氏義家流直系の足利家の泰氏ですが、当時、有名な「無断出家事件」によって得宗家(北条家)及び朝廷からの喚起を被り様々な役を解任され本領に蟄居させられた御仁です。しかし、泰氏こそが摂家将軍(藤原摂関家からの鎌倉将軍)であった第4代、第5代を側近として支えた人で、藤原摂家としては何とかしてあげようと思っていたかもしれない。謎の多い無断出家で一遍地に堕ちた足利宗家にこれも何故か、勧修寺流から突然出た重房が仕官する。まァ何だかよく分からないドロドロしたものを感じるのですが、此処から足利家は復活の兆しを見せるのですから何か色々あったのでしょう。

新田や足利や佐竹や武田など関東の源氏の成り立ちや坂東平氏の成り立ち、更に藤原氏との絡みなどは別の機会に怪説させて頂くことにして先を進めます。

 

上杉重房は嫡男・頼重に家督を譲る一方、二人の娘(名は不明)をそれぞれ長女を新田氏直系の山名政氏の正室として、二女を泰氏の三男でやがて足利宗家第5代当主を継ぐ足利頼氏の側室として嫁がせる。

山名氏は、政氏の子・山名時氏が大出世。伯耆、出雲、隠岐、因幡、若狭、丹波、丹後という七か国の守護となる。その直系血筋から応仁の乱の一方の主役である山名宗全を輩出する。上杉氏と山名氏は最初の婚姻以降も何度か政略的婚姻を繰り返し、山名、上杉、双方に大きな利益を齎します。

それ以上に、足利との政略婚は上手く行った。

足利宗家は、嫡男は必ず北条得宗家の娘を正室に迎えて、二人の間に生まれた子が当主となるという不文律の決まりがあった。ところが、頼氏と北条から嫁入りした正室との子は育たなかった。頼氏は慣例を破り、上杉から側室に入った娘との間に誕生した唯一の男子・足利家時に家督を譲る。家時は北条得宗家から正室に入った妻との間に嫡男・足利貞氏を誕生させる。そして・・・

足利貞氏も北条得宗家から正室を迎えるが、再び、上杉家から側室・上杉清子(=重房の孫娘)を迎えた。正室との間に足利高義が誕生するが20歳にして早死に。そして、側室・清子を母として誕生した足利尊氏が室町幕府の初代将軍となる。以降、上杉と足利も何度も政略婚を繰り返し、足利将軍家の縁戚として上杉家の力は絶大なものとなる。

以上の事からも言えるように、上杉家にとっては、姫の誕生はお家発展に欠かせない目出度い出来事=吉兆であった。頼重の娘(清子の妹)加賀局は、勧修寺家の別当・道宏の正室として嫁入りし、勧修寺重能を産む。道宏の跡継ぎは弟に譲り?重能は、嫡男が誕生しなかった上杉重顕(頼重の長男)の養子となり上杉重能を名乗ることに。という具合に勧修寺家との繋がりもますます濃くする。

この頃には、扇谷家や山内家、宅間家、深谷家、千秋家、犬懸家など、上杉氏系の本・支流の家系の基盤が出来上がっていきます。そして武家・上杉氏の発展は、奥州藤原の栄華をストップさせられた藤原北家にとって大いに歓迎出来ることだった。上杉家は、奥州藤原の滅亡から久しい、藤原氏族待望の「武家・藤原」の中核を成す家柄となったわけです。因みに、諸説ありますが、坂東平氏の長尾家が初期の千秋上杉家と婚姻し、千秋長尾家となった頃から、上杉と長尾の縁戚関係は続いた古い間柄とされる。

長尾家が坂東の争いで一族郎党皆殺しにあった時、上杉家がそれを支え辛うじて家名が続いた経緯もあり、長尾氏にとって上杉家は主君以上に強い恩義を持って接する相手だった。が、上杉氏内部の勢力争いに巻き込まれる形で、長尾家も枝分かれしていく。

 

越後に於いても、上杉氏内部の勢力争いは収まらなかった。

元々の守護家もハッキリと定まらない中で、山内上杉家と犬懸上杉家が分担守護の様相を呈したが、それはやがて犬懸上杉家に山内家から養子が入ったことで、統一守護職が山内家、それを補佐する犬懸家のような形で一定の落ち着きは見せた。ところが、"殿様同士"はそれで良くても、それぞれの親戚筋や重臣たちには納得出来ない"目に見えない席次"のようなものが生まれた。それで結局は両家は合併。越後上杉家となる。

しかし、燻りは続く。そして越後上杉家は、本家と三分家になる。犬懸家系の山本寺上杉家、山内上杉家系の山浦上杉家、同じく山内上杉家系の上条上杉家です。この三分家をまとめる本家は府中(現・上越市)にあった。

 

そして、長尾氏も本家は府中に置き守護代職を務める。因みに、長尾本家の本領は、三条(三条長尾家)。長尾景虎も三条長尾家に生まれます。

三条長尾から最初に分家したのが現在の長岡市を中心に領した古志長尾家(栖吉長尾家とも言う)。因みに、景虎の母・虎御前=青岩院は古志長尾家の出です。

三条長尾家から見たら末弟に当たるのが、現在の南魚沼市を中心に領した上田長尾家。因みに、景虎が最も頼った姉・桃姫=仙洞院が嫁ぎ、夫・長尾政景との間に誕生するのが景勝。景勝が相続争いを制したことで、三条長尾を中心に長尾氏は再統一される。

 

少し話を戻らせて、景虎は、山内上杉氏系の山浦家を再興させる手土産を持って上洛しますが、これは、上杉氏の権威を重んじる姿勢を藤原氏に示した形となり、結構大きな土産だったわけです(=≫(上杉謙信を女性説に基づき語る(14)~最初の上洛と近衛家の娘たちの謎~)。

 

勿論、上杉家に限った話ではないのですが、特に新興の上杉家にとって、婚姻や養子縁組は重要な政略であった。その政略に欠かせないのが女性(姫)の誕生であり、上杉家を支えたのは紛れもなく女性の血筋だった。というわけで、元来、上杉家は女性を大切に扱った家柄であり、その最たる重臣であった長尾氏も女性を重んじた家柄だった。

関東管領上杉憲政(山内上杉家当主)は、北条、武田と常に敵対していた。そして、天文16年(1547年)の小田井原の戦いで武田晴信に大敗したことを最大のきっかけとして居城を追われ景虎を頼り越後へ下った。という事もあり、藤原北家側(引いては近衛家)にしてみたら、長尾景虎=上杉を助ける味方、武田晴信上杉を追い詰めた敵、という見方もあったかもしれない。

そして、過去に養子のやり取りをしている上杉と長尾ですから、上杉側としても、近衛や足利に気に入られた景虎を養子に迎え入れて上杉を名乗らせる構想は、極めて現実感があった話だったでしょう。しかし、それは、景虎が武田や北条を相手にしても負けないということを、憲政が確信出来てこそ成った話。それまではもう少し時が必要。

 

※(19)へ続けます

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